土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『化物語』#08「するがモンキー其ノ參」の感想。

「ひとつだけいいかい、アララギくん。」
「なんだよ。」
「どうして、自分を殺そうとした相手まで、アララギくんは助けようとするんだい?あのお嬢ちゃんは無意識とは言え、アララギくんのことを憎むべき恋敵として捉えていたんだぜ。そもそも、雨合羽の正体がお嬢ちゃんだと解った段階で、アララギくんはどうして、お嬢ちゃんの話を聞こうなんて思ったんだい?その時点で、お嬢ちゃんをすっ飛ばして、僕のところに来るのが、本当だっただろうに。」
「生きてりゃ、誰かを憎むことぐらい、あるだろうさ。殺されるのは、そりゃぁ、ごめんだけれど、神原が戦場ヶ原に憧れていたってことが、僕を憎む理由だって言うのなら、別に、許せるしさ。」
『化物語』#08「するがモンキー其ノ參」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 ん?問題の解決になってないんじゃない??単にスルガの「願い」が無効になっただけで、スルガの本質的な怪異の要素や根源は解消されてないんじゃないのかな。。。ちょっと終わり方は微妙だったなぁ。それに、どうしてもスルガの傲慢さが鼻についてしまったwかたや、表面的なメッセージとしては大きなお節介をしてでも積極的に他者との関わりを持つことを是とするようなものだったから、それを強調するための道具立てとしてスルガを用意したと見るべきなのかなぁ。相変わらず長々としたセリフばかりで、映像を見なくても話の展開を理解することができるってのがアニメらしくないよねww映像とセリフの乖離とまでは言はないけれど、セリフがあれだけ前面に出てきちゃってるからこそ、映像は映像で遊ぶようなかたちになっちゃうのかな?ラジオドラマの添え物として映像がある感じ?って言ったら、作画の人々や絵コンテの人なんかが怒るだろうねww実際、アニメの制作においては映像に関わるスタッフの数が一番多いことだし、アニメとしては不思議な作品だ。。

■怪異としての「猿の手」

 怪異って具体的な現象のことばかりを指すものだとは考えにくいですよね。たとえば、子供がよく風の音や人のいないところから発せられる光や音に反応して「おばけ」と称することがあるけど、それも具体的に「おばけ」なる存在がそこにいるのではなく、基本的には風が窓の隙間から入って鳴った音とか信号の光とか、個々の現象としては「おばけ」と単に呼ばれるものではありません。けど、そういった一連の現象を前にして子供は「おばけ」として想像を働かせるわけです。まぁ、本当に「おばけ」がいる可能性も否定することは不可能ですけど(^_^;)とにかく、怪異と呼ばれる現象というのは、具体的な現象に対してのものではなく、むしろそれを観察している人間の精神的な反映を読み取るべき側面のあることは否めません。
 そういった視点から『化物語』を眺めると、確かに精神的な側面を「怪異」と呼んでいるものと考えることができます。まずヒタギの「重し蟹」も母親との関係を切るために蟹を頼みにしてしまった心の弱さみたいなものがあったし、マヨイのときもアララギの母の日に対する負い目が心に迷いを生じさせていたし、スルガの場合もアララギに対するどうしようもない嫉妬があったし、それぞれ怪異の根源には人の精神的な問題がありました。今回のスルガも自分の左腕について「切り落としてくれ、こんな左腕、いらない。」と宣言しておきながら、実際にアララギと対峙したときには「無意識に、神原は拒否しているんだ。」や「神原は戦場ヶ原を諦める気がない。」とあるように自身の欲を抑えずにいる姿が描かれていました。そして、そういった欲が「猿の手」という名と自らの変貌した左腕とともに「怪異」として具現化していたと読み取れます。確かに、腕が猿みたいな手になっていることが「怪異」そのものであるのかもしれませんが、その背景には心の問題として様々な屈折があり、それが怪異の原因として作用していることを見逃してはならないと思います。「持ち主の意に沿わぬ」っていうのも、人間の精神が屈折した精神性やホンネを隠すためのシステムを怪異に内包させたものであって、決してレイニーデビルに元来備わっていた性質ではなかったことも、「怪異」のありようを示すものとして特徴的だと思います。
 これって、ある意味では日本に伝統的な「こわさ」と呼ばれる要素なのかな?「のろい」とか「うらみ」とか「たたり」とか、ずいぶん昔から人々は恐怖の対象として精神的な作用を認めていますよね。平安時代では早良親王とか菅原道真がそうなんだろうなぁ。そういえば、上田秋成の『春雨物語』でも「鬼」について具体的に角が生えたり肌が赤かったり髪の毛がクルクルだったりするんじゃなくって、執念に取り付かれた人の精神性を「鬼」と表現していたような。。「死首の咲顔」から、そんな風に読み取った記憶があります。なんだか壮大なつながりを感じちゃいますよねww
 あ、そうそう、こう考えてみると、今回の話はオチがついてないんですよ。だって、スルガの「怪異」の根源は解消されてないでしょ?単にアララギとヒタギの関係性はアララギを殺しても解決されないという事実を前に願望が効力を失っただけで、スルガ自身の屈折した精神性が解消されたわけではない。前回まではヒタギもアララギも何らかの形で内省的に自己の精神性を更新させていたけれど、今回のスルガには内省が一切なかった。ちょっと不満が残りますよね。。。作中ではアララギが噛ませ犬になっていたけれど、作品としてはスルガこそ噛ませ犬だったのかな?

■スルガの傲慢さ

 スルガが傲慢に思えてしょうがない。ここにはモンスターペアレントとつながる現代社会の病理を感じてしまうwwキーワードは「お客気分」ってやつですね。彼らは自分が「ゲスト」であって、もてなされることを当然のように思っているんです。言い換えれば、自分の意に沿わない現状にぶつかったときに、まず自分を見つめなおして内省することをせずに、とにかく周囲の環境を変化させることによって自らの主張を認めさせようとする行動を取る点が共通しています。相手の立場を認めた上で協力して事に当たるのではなく、相手にこそ事態の責任を求めて自分は常に優位的な権利を有する立場にあると考えるということです。
 スルガに即して言えば、小学校時代は足を早くしようとした結果として一緒に走る予定だった生徒を殺し、ヒタギとの関係についてもアララギを殺すことで自身の中で構築された親愛すべきヒタギ像(注:スルガの抱くヒダギの偶像については前回の話の感想を参照のこと。)を維持しようとします。そして、そういった「殺意」は決して怪異によってもたらされた現象ではなく、無意識ではあるけれども本人の「願望」によって引き起こされたものであることは作中でも触れられていました。足を速くしようと自身の力で努力をすれば解決の方途も見えたであろうに、猿の手の力を借りて周囲の対抗者を消してしまうことは、自身を内省せずに周囲の環境を変化させることで自らの主張を通そうとする行動であると見られます。アララギを殺すことについても、自らの抱くヒタギ像を守るという至って個人的な願望のためだけにアララギという存在を排除する暴挙を行っています。とにかく、こういった他者の存在を否定することによって自身の立場を守ろうとする行動は、明らかに「傲慢」としか言いようがない。確かに迫害を受けたことを動機のひとつとして汲み取ることもできるかもしれません。けれど、迫害することだって他者を否定することで自己の保身を図る行為であって悪なのですから、それを同じ方法で、さらには「殺す」という最も決定的な方法で自己の立場を守ることは同じく悪です。ただ、実際に現実社会で付き合うような人間の多くがこういった要素を持っていることは少なからず実感していますし、スルガの存在はそんな現状を象徴するようなものなのかもしれません。
 どうも、自分自身の経験してきたことがフィードバックされてしまい、イライラも激増でしたww他者を否定することで成立させようとするアイデンティティーなんて糞くらえです。おっと、餘談が過ぎました。。。内省しなきゃねw

■スルガの無意識とキャラクター

 まぁ、話としては好きになれませんが、かなり重要な示唆を与えてくれます。というか、頑張って読み取りましたwこれって、新しい発見じゃないのかな。。とか、自画自賛しちゃいますwwそうは言っても、どっかの誰かが何十年か前に論文で発表してたりしてね(^_^;)こういうとき、『魔方陣グルグル』のトマが「きりなしの塔」攻略の際に発明した「魔雷砲」を思い出しますw
 前回の話の感想の続きになります。一見すると他者とは独立して存在していると考えがちな「個」という発想も、実は「大衆によって形成される集合無意識」に帰属しているのではないかという話です。前回は攻殻やガサラキを引き合いに出して少しばかり論を進めてみました。今回の話で、その決定打になるような内容があったかな?
 それは、スルガの殺意が「無意識」によって引き起こされたと表現されていた点にあります。オシノに言わせれば怪異は「求められたから、与えただけ。」であって、スルガの意識についても「もちろん、そんなことを願ったのは無意識のうちだったんだと思うぜ。」という条件付きで「タテマエ:足を速くしたい―ホンネ:あいつらを殺したい」となります。アララギにも「人間ひとり殺そうとしているって、それは、神原の望んだことじゃないんだ。」だなんて言わせて、その一方で、戦闘中に「無意識に、神原は拒否しているんだ。」と言わせています。つまり、意識の上では他者との共存を望むような顔を演じながら、無意識では自己の保身のために他者を否定することを望んでいるという二重性を描いたことになります。この「意識」の上で「演じる」部分というのは、前回の話で「キャラという暴力」ということで一つ項目を立てましたのでご参照を。重要なのは、個人の所有物として捉えられてきた「意識」というものが、他者の介入を許している、むしろ他者に従属しているという点にあります。
 そして、無意識の部分において「殺したい」という個人的な真の願望が表れていると表現されているところも面白い。つまり、スルガは「意識」の部分では他者との円滑な共存を可能とするための「キャラクター」を演じるための思考を働かせ、「無意識」の部分では真に個人的な願望を持っていることになります。スルガの実際に即せば、アララギやヒタギの間(=小さいながらも「社会」)で共有されている「求められる」「好ましい」スルガ像を保つために「人を殺したくない」というような発現を行い、その反面、無意識の上では自身の一番の願望を達成するためにアララギを殺そうとするってことです。
 これを言い換えれば、個人的なものであるはずの「意識」が社会に取り込まれてしまっているってことでしょ?これこそ「大衆の総意」につながるんじゃないのかな??うん!なんとなぁく存在している、集団の中で漂う空気のような「みんなの思っている正解」みたいなものに個人の意志もなんとなぁく従っているってこと。少し難しく言えば、社会的にあるべき自身の姿を思考する部分を「意識」と呼び、社会から逸脱したところに成立する真に個人的な願望や動機によって行われる思考の部分を「無意識」って呼ぶものと今回の話からは定義できるのかな?すると、意識は社会に従属して他者とはボーダレスな状態になっているため、「個」というものは意識には表れずに無意識に追いやられるってことかな。。
 これまでの部分は攻殻の「動機なき模倣者」とか「Stand Alone Complex」現象として指摘されもしてきたところ。ここからが新見になるのかな?w畢竟、他者との関係性を構築する意識的かつ対外的な思考というのは大衆の総体によって求められた社会的に共有されるものとなり、従って、「お客気分」という先の傲慢さも自己の内省によらず周囲の環境変化にひたすら依存している理由もよく解る。だって、今、あなたと接している自分という「個」を決めているのは、あなたと共有している「総体」によるものであって、もし自身のありようを変えたいと望むのであれば、それは内省するよりも他者を否定しなければ「総体」に変化をもたらすことはできないじゃん。自己は総体によって規定されているために、何か自身の主張を通そうとするには総体の構成要素である他者を崩さないといけないよね。そして、そんな「意識=社会に従属したもの」から解放された「無意識」にこそ、それぞれの本質的な主体性の発露を認められるんでしょうね。論理的には…、だけど。。つまり、近年の傲慢とも言える権利意識の高まりや自己規定を他者へ依存する傾向について、その原因を「個」のボーダレス化と意識の「社会の総体」への帰属に求められるのではないかってこと。わかりにくい譬えで言えば、トイレがそれかな?トイレの中って安心して長居をするって言うじゃん。完全に他者とは隔絶した空間だから、何も気にせず過ごすことができるって。トイレの中が無意識で、トイレの外が意識。どちらも同じ人間の行為だし思考であって、両方とも同じ家(=意識)の中。だけど、そこには住み分けがあって真にくつろげる空間はトイレだってこと。わかりにくいかな。。w
 ただし、ここで言う「意識」も「無意識」も、いっそ同じ「意識」だと言えなくもない。けれど、それを「意識⇔無意識」というふうに弁別した点に今回の話の面白さがあると思う。そして、そんな作品の背景にある現代社会っていうのも忘れちゃいけないし、こういう精神性を読み取ることこそ文學の行うべき作業なんじゃないのかな??かなり飛躍しちゃったww

■作品の求める「救い」

 そう考えると、アララギは社会の総体が望まれないことをやろうとしたんですよね。自ら死を選ぶことで問題の解決を図ったけど、それはすべての関係性を否定する行動であって合理的ではない。実際に、ヒタギはこう言っています。

「アララギくん、どうせあなたのことだから、自分が死ねば全部解決するとか、間の抜けたことを思っていたんじゃないかしら。冗談じゃないわよ。アララギくんが死んだら、私はどんな手を使ってでも神原を殺すに決まっているじゃない。アララギくん、私を殺人犯にでもするつもり?」

 アララギはヒタギ(=ミクロな社会)の意に反した行動を取ったわけです。これこそ意識に「個」の宿った行動と言えるのかな?行動そのものからは、トラに自らの肉を食わせて悟りを開いたような変わり者を連想しちゃうけど、アララギはそんな高尚な発想を持ってないよねwwでも、相手に対して主体性を以て積極的に関わっていこうとする姿勢こそ大切なのであって、それが社会に従属した他者からは特殊な「セルフフィールド」と見られるんだろうなぁ。考えてみれば、#06「するがモンキー其ノ壹」での羽川のセリフが思い起こされます。

「それこそ、あんまり知った風なことを言うつもりはないけれど、戦場ヶ原さん、難攻不落のセルフフィールドを作っちゃってるからさ。アララギくんも持っているやつね。セルフフィールド自体はプライバシーとか言って、誰でも持っているものだけれど、戦場ヶ原さんやアララギくんは、そこでさらに篭城戦を繰り広げちゃってるわけ。そいういう人は人付き合いそのものをうっとおしいと思ってることが多いから…。思い当たること、あるでしょ?両方。でもね、アララギくん。人付き合いが嫌いなのと、人間嫌いは違うんだよ。世の中に、人の来るこそうるさけれ、とは言うもののお前ではなし。言っている意味、わかるよね?それに、私が言いたいことも解ってくれるよね?」

 なんか、現代社会への決別と救済を感じちゃうなぁ。「人付き合いが嫌いなのと、人間嫌いは違うんだよ。」っていうのには共感しちゃう☆この作品ではアララギとヒタギが救いの象徴として描かれるんだろうなぁ。その点、スルガは初めて登場した現代社会の悪弊を描いたことになるのかもしれない。あの、マヨイは怪異だったけど、中心に描かれていたのはアララギの心象だったから、基本的に「まよいマイマイ」はアララギの回だったと思ってます。



 なんだか歯がゆい!もっと頭が良ければ、もう一歩先のことまで見えそうなんだけど、なかなか言葉や思考の中でまとまらない。。。もっと訓練しなきゃなぁ。ちょっと限界を感じています…。
 「記事の更新が遅れて申し訳ない」とは言いつつも、ちなみにこの発言は「意識」によるものですwいわゆる「無意識」のレベルでは「テキトーにやるし~」と思ってますww気負わずにやるのがモットーですし、基本的には考え事のメモとしてこのブログを位置付けているので。。ただ、この記事書くのに三時間くらいかかっているのはイタイなぁ。。まぁ、実のあることだと勝手に思っているからいいんだけどw

テーマ:化物語 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/08/31(月) 23:59:18|
  2. 化物語
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

コメント

こんばんは

今回も何度も読み返させてもらっています。
1つ質問があるのですが回答していただいても良いでしょうか。

本文中の
作品の求める「救い」
において
アララギは自ら死を選ぶことで全ての関係性を否定している、それは合理的ではない

の部分ですが、関係性を否定しているというのはどのようなことなのですか

時間が許すなら回答をお願いします
  1. 2009/09/06(日) 23:27:25 |
  2. URL |
  3. 藤川 #-
  4. [ 編集 ]

No title

 言葉足らずで申し訳ありません。まずは先の文章を少し訂正します。

そう考えると、アララギは社会の総体から望まれないことをやろうとしたんですよね。自らしを選ぶことで問題の解決を図ったけど、それはすべての社会的な関係性(ここではヒタギとの関係性)を否定する行動であって合理的ではない。

 アララギは自らしを選ぶことによって、事態の解決を導こうとしています。しかし、それはヒタギとの関係をないがしろにした判断であって、必ずしも解決に至るわけではない。現に、ヒタギは「アララギくん、どうせあなたのことだから、自分がし ねば全部解決するとか、間の抜けたことを思っていたんじゃないかしら。…(以下略)」と言っています。確かに、スルガとヒタギという関係性を丸く収めるには自らが舞台から身を引くことも方法のひとつとして考えられます。それに、「ヒタギ」という社会(アララギから見た社会の代表)から望まれる行動を取らなかった点は、社会からの従属から解放されて「個」としての判断を行ったものとも受け止められます。これは社会の総意に従属したスルガとの対比において強調されて見える。ただし、この場合には同時にヒタギの意志を排除することにもなります。このことを「関係性を否定」するものだと理解しました。
 また、この場合、自らの意志によって判断を行ったことは良しとしても、その判断の内容は合理的とは言えません。結局は自分が身を引いたところでヒタギの意志は尊重されないわけですから、スルガとの関係性も丸く収まることにはならない。なんとうか、アララギの判断も一人よがりで傲慢なものと言ってもいいのかもしれません。謙虚と言うか、一歩身を引いた姿勢というか、誰にでも優しいと言えば聞こえはいいですが、この点については「なでこスネイク」にてジュンク堂での羽川さんのセリフでずぶりとアララギの本質が突かれていましたねw事態の収拾という観点からはアララギの判断は筋道の通らない至らない判断だったと言えます。

 とにかく、個人の意志と社会の総体の関係について、具体的な事象が描かれている興味深い話だったと思います。どうも長文になると最後は集中力が欠けるのか、論理性が崩壊してしまっていけません。投げやりなんでしょうか。反省して今後に活かさなければ…☆いつもながら大目に見て、訝らずに意を汲み取って頂けると助かります。
 っていうか、またデータが消えました。さっき、同じような文章を作って「送信」を押したのですが、ページに反映されずデータも戻ってきません。しかも、何度か禁止ワードが含まれているとのことで弾かれました。怒ったので、メモ帳などで文章を作成してからコピペする方法に変更しましたw憤懣やるかたないので、これからアニメを見ますww
  1. 2009/09/08(火) 01:12:39 |
  2. URL |
  3. 土星蜥蜴 #sFkuDBeA
  4. [ 編集 ]

返答ありがとうございます。
データ消えたんですか…
これからも更新を楽しみに待ってます。
  1. 2009/09/19(土) 21:11:27 |
  2. URL |
  3. 藤川 #-
  4. [ 編集 ]

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