土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『化物語』#11「つばさキャット其ノ壹」の感想。

「怪異に責任を求めるのは間違っている。アイツらは、ただ単にそういうふうに、そうであるだけなんだから。怪異には、それにふさわしい理由がある。それだけのことだ。」
『化物語』#11「つばさキャット其ノ壹」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 ヒタギを出せぇ~!wナデコが可愛いことはよくわかったから、いい加減、ヒタギとの絡みをやって欲しい。他人の視線を感じ取ることができるっていうナデコの設定も、何か危険な奥ゆかしさを感じるけど…。そんなことよりも、アララギを間にして羽川さんとヒタギをぶつけることで、アララギの弱点を徹底的に突いて欲しいのだよw

■化物語の言う「怪異」

 冒頭のセリフって、どっかで聞いたことがあるような…。と思ったら、『蟲師』がそうでした。蟲も「ただ単にそういうふうに、そうであるだけ」な存在として描かれていたと思います。特に、蟲は自然界に存在する秩序に準じるようなかたちで生息していましたから、普通の人には見えないというだけで一般的に言う「虫」と同じものと考えても差し支えないようなものでした。主人公のギンコも蟲と人間との共存という立場から、無理に蟲を駆除することに対して好意的でなかった。まぁ、『蟲師』の世界からすれば、蟲というのは怪異でもなんでもなくって、単に見えないってだけなのかもしれない。たまぁに、悪さをする。要は、人間とは超然とした関係性にあるもので、互いに同一の自然界という秩序のもとに共存しているって感じ。人間とは別の存在として、確実に存在しているもの。けれども、視聴者やら読者からすれば、確かに超常現象な感じですから怪異と一括りにしても変わらないのかな?w
 一方、『化物語』の言う怪異ってなんなんでしょう。今までの傾向からすれば、確実に怪異に関わっている人間の精神的な側面に大きな関係性を見出すことができると思います。ヒタギは母親に対する感情を追い払うために体重と一緒に「重し蟹」の力で縁を切っていたし、マヨイの場合はアララギの家に帰りにくいという引け目が迷いの元凶になっていたし、スルガの場合もヒタギへの思いについてアララギに対する嫉妬が原因になっていたし、今回も羽川さんの家庭環境によるストレスがひとつの原因と考えられるし、どれも人間の内面に怪異の大きな要因を見出すことができます。これは「蟲」とは大きく異なるところ。
 つまり、「蟲」は人間とは別個の存在として現象を確認することができるけど、『化物語』の「怪異」は人間の内面における精神的な作用に重きを置いているために人間と別個には考えられない。『化物語』の「怪異」の場合には、何か具体的な現象が確かに存在するとは考えにくいと思います。むしろ、人間の精神的な状態に応じて、それを怪異として名付けて概念的に一括りにすることによって認識の土俵に立たせるような…。たとえば、羽川さんに即して言えば、確かに猫耳が生えて超人的な能力を発揮するとは言え、それは日常で抑圧されている羽川さんの精神状態が解放されたことによって生じた一種のトランス状態であると考えられないでしょうか。それを「障り猫」とか言って名付けることによって、一連の複雑な心理状態やら環境を概念的にまとめてしまうような。何か、「障り猫」という現象に憑かれてあのような状態になったのではなく、羽川さん自身の中に「障り猫」と呼ばれるだけの原因となる精神状態が生じていたと考えるべきだと思います。ヒタギ然り、アララギ然り、スルガ然り。ナデコはそこらへんのことを詳しく描かれていなかったのでわかりませんwとにかく、『化物語』に登場する怪異に共通する要素としては、人間の精神的な作用によって生じているということが挙げられます。
 このように考えると、冒頭に掲げたセリフって違和感がある…。「アイツらは、ただ単にそういうふうに、そうであるだけ」っていうのは適切じゃないと思う。「蟲」のように人間からは超然として存在している怪異であるならばいいけれど、ほぼ人間の内面に怪異の原因を求めることのできる『化物語』の場合にはこう言っちゃダメなんじゃないのかな。。「怪異」って呼ぶことで人間とは別の存在として扱われているように感じちゃうけど、常に人間の精神的な部分の裏表みたいな関係に怪異があるっていうふうに考えなきゃいけないんじゃないのかなぁ…。なんていうか、作品で実際に取り上げている具体的な怪異を並べるとそう思えるんだけど、なぜかこの部分だけ全体とは異なるようなセリフが入っているから矛盾を感じなくない。

■自己規定において個人を統御する社会と社会に従属する個人

 羽川さんってスルガと同様に社会に従属するタイプの人間だったんですねwてっきり、アララギの弱点なんかを客観的に分析していたので、羽川さんもアララギやヒタギと同じ側の人間なんだと思っていました。むしろ、羽川さんは自分でわかっていて社会に従属しているって感じなのかな?たとえば、父親なんかが自分に対してもカチンときちゃっても仕方ないと思うっていうのは、羽川さんと父母で形成されている小さな社会の中で、羽川さんが自己規定を社会に委ねているっていうことになると思います。それは、そうしたほうが事もなく収まるから。彼女は優等生であるという他者からのレッテルを感じつつも、自分ではそう言われることを好まない。
 これらの例からわかることは、彼女が自己規定を行う際には必ずしも内発的な動機によって行われるわけではないということです。本来ならば、「自分らしさ」と呼ばれるものは当然のこととして自分で決めるものなんでしょう。しかし、スルガの例も含めて、羽川さんの場合は「羽川さんらしさ」と認められるような人格を規定しているものは父母であったり同級生であったり、他者によって行われています。父母には疎まれているから、彼女は休日は散歩をします。委員長の中の委員長であると他者から思われているから、彼女は委員長なんでしょう。ただし、成績や委員長であるというのは彼女の主体的な行動の結果としてもたらされる評判を含めますから、他者から強要された人格であるとは言いにくい。しかしながら、彼女がもしそう思われたくないと考えたならば委員長に立候補しないという選択肢だって用意されていたはずです。少なくとも、彼女は他者の期待に応えてしまう側面があり、それは他者からの規定を受け入れているものとも言い換えることができます。
 そして、その結果としてストレスを溜め込んでしまい、それが「障り猫」と呼ばれる怪異になって顕現した。羽川さんが優等生だと思われたくないと思っていることはアララギの発言からも明らかですし、彼女自身の思いとしては優等生だと思われることはストレスになっていたのでしょう。おそらく、父母との関係においてもストレスを感じていたものと思われます。大事なのは、ストレスを感じていながらも、他者の期待している「キャラクター」あるいは「役割り」を演じてしまっているということです。父母との関係をアララギに告白していますが、それは「誰にも言うな」という条件付きでのものでした。これは彼女がそういった複雑な状況にあることを知られることが露出してしまったら、彼女の「キャラクター」が崩れてしまう、もっと言えば要求された「役」を完全に演じることができなくなってしまうからだとも考えられます。こういった、友人やら父母との間に形成されているものをここでは「社会」と呼びますが、この場合の羽川さんの行動を社会への従属した状態であると言ってもいいと思います。そして、それを裏返しにすれば、社会が個人に対して「あるべき姿」を求めていることにもなり、それは社会による個人の統御と言い換えることもできるでしょう。
 社会と個人の間にはこういった寄生関係が成り立っているものと読み取ることができると思います。父母や友人によって構成されている「社会」によって「羽川」というキャラクターが保障されており、その保障された「キャラクター」を演じることによって羽川さんは社会からの認知を受けることができる。そして、同時に、羽川さんはその社会へ参画することによって、他者を保障する立場にもなる。国際社会の関係性みたいですねw集団的自衛権ってやつでしょうかwwなんていうか、互いが互いにそういった関係性にあるわけですから、「社会」っていうのも誰か特定の個人によって管理されているものではなくって、なんとなぁく形成されているものなんだと思います。それが「集合体無意識」とか「大衆の総意」とかって呼ばれるものなんでしょうか。友達関係においても「空気」を読まないと、そのグループから排除されるなりペナルティを受けることになります。しかし、その「空気」と呼ばれるものも誰かが具体的に決めているものではない。
 これはスルガの事例でもほぼ同様のことが指摘できました。スルガはアララギや忍野の前では人を殺すことをためらい、自分の腕を切り落としてもいいとまで言っていた。しかし、実際にはヒタギと自分の関係性を守るためにアララギという邪魔者を殺そうとしていました。この場合、スルガはアララギや忍野が作り出していた「空気」を読んで「殺したくない」と言っていたとも捉えられ、社会の求めるキャラクターをスルガが従順に演じていたと見ることができます。

 しかし、ここで問題となるのは、羽川さんもスルガも自身の本当の気持ちというのは無意識のレベルになってから初めて表に顕れるということです。2人とも普段はそんなことちっとも出さないのに、怪異に取り憑かれた段になってからホンネが出てきます。彼女たちは怪異に憑かれたフリをしているんでしょうか?ww本来ならば、「自分らしさ」は本人によって規定されるべきところを、「大衆の総意」によって保障されたキャラクターを遵守することで社会への円滑な参画を可能としています。だからこそ、普段は、本当の自分の気持ちは社会を前にして抑圧されているのかもしれません。
 と、するならば。。。「個人」ってなんなんでしょう?(^_^;)他者と付き合っているときの個人は、もはや個人とは呼べないものなのでしょうか。個人は無意識のレベルに追いやられている、それこそ、誰からも干渉を受けないような絶対領域においてのみ、その主張が認められるのでしょうか。そんな絶対領域こそ、「怪異」と呼ばれる現象によって表に引っ張り出されている精神状態を指すものと考えると、ちょっと面白くなります。
 う~ん、でも「意識」と「無意識」をどうやって定義するのか、そこが難しいですよね。。。こういう概念を使うことすら古くなっているんでしょうか。無意識のレベルに意識が出てくるって、なんという言葉の矛盾なんでしょうwwそれだけ意識が社会に取り込まれてしまっていて、本来的な意識は社会的な関与が「無」な状態でないと顕れないと考えればいいんでしょうけど。。社会に飼い馴らされているというか、受身の自己規定というか、馴れ合いというか、どうも貧弱で安易な自己規定のプログラムに身を委ねているだけにしか見えなくって、好きじゃありません。
 どうやら「社会」や「空気」って呼ばれるものに「神」なる構造を見て取ってしまうんですけど…。だって、自身の存在を保障しているなんてのは、どこに行っても「神」と呼ばれるものなんだと思います。従来は?宗教的にだったり自然界にだったり「神」なる存在を見出していたわけですけど、ココに来て社会という人間の関係性の中に「神」なる構造を発見することができるんじゃないでしょうか。「大衆の総意」という特定の個人によっては不可侵の領域であり、なおかつ多数の人間によって存在を規定されているようなものは「神」と呼ばれるべきものと言えるんじゃないのかな?



 さて、原作が手元に届いたので読んでみます。函まで付いているとは豪勢なこって。ラノベにしては高いよなぁwwもっと安くしてくれればいいのに。。。アニメとどこが違うのか、アニメ化する上でどんな工夫がされているのか、アニメ化されたことで何が省略されてしまっているのか、いろいろな視点を持ちながら読み進めたいと思います。感想は…、気が向いたら書きますw

テーマ:化物語 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/09/19(土) 22:37:29|
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