土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『もののけ姫』の感想。

「モロ、わしの一族を見ろ。みんな小さくバカになりつつある。このままでは、わしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう。」
『もののけ姫』より乙事主のセリフ

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 往年の名作を振り返るシリーズ、今回は『もののけ姫』を取り上げます。宮崎駿監督は社会ってものが嫌いなんでしょうね。。『風の谷のナウシカ』の頃から人間の驕りみたいなものを批判的に描いてきましたし、『紅の豚』にしても『ハウルの動く城』にしても社会からはみ出した生き方をする登場人物が出てきました。『千と千尋の神隠し』でも強欲な大人を描いていました。あんまり社会の真ん中を描くような作品はないんじゃないのかな?他の視点から言えば、宮崎駿アニメには「純粋無垢」っていう言葉がよく似合う。人為的なものに対して極度の嫌悪感を示しているようにも感じます。よく、もののけは環境保護だとか自然の美しさを描いたものとして批評されますけど、そんなもんじゃないと思う。もっと社会全体に対する厳しい風刺や自然への立ち返りを忘れた人間の末路が描かれていると思う。それにしても、何回見ても理解できない謎は、カヤがアシタカに渡した玉の小刀でしょう。なんでアシタカは大事な小刀をサンに渡しちゃったの?人からもらったプレゼントを他の人にプレゼントするなんて、嫌な男って感じwまぁ、いろいろ考えてみます。

■時代考証と背景

 基本的には15世紀くらいなんだろうか。地侍が出てくることや将軍の力が衰えていることから考えて、だいたいそれくらいでしょ。ただし、あくまで虚構なわけだから厳密にどの時代かなんて関係ないんだろうけど。でも、蹈鞴の様子や生活の状況なんかを見ていると、すごくリアルに感じます。なんだろう、生活感があふれているっていうか、本当に生の蹈鞴の生活を見ているように思えてすごかった。時代考証をどうやったのか、不思議です。

「大和との戦に敗れ、この地に潜んでから五百有余年。今や大和の王の力はない。将軍どもの牙も折れたと聞く。だが、我が一族の血もまた衰えて、このときに、一族の長となるべき若者が西へ旅立つのは定めかもしれぬ。」

 アシタカが出発する前にこんなセリフが出ますから、まぁ、たとえば征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂は広辞苑によれば758年~811年の人だから時代的には多少のズレを含むけど一致と見ていいのかな?要は、もはや蝦夷と大和王権が火花を散らしていた頃のような勢いはお互いになく、新しい社会の体制に移行しつつあるっていうことでしょうか。
 この作品では神をも殺して祟りや恐れを知らない人間社会の構築が物語られるわけですから、合わせて考えると時代の変化っていうのが大きく描かれているように思う。あるいは、自然を信仰して良い意味で従属していた人間が、そこから独立して自分たちだけで秩序を組み上げなおしたようなかたちになるのかな?自然を管理するようになったと言ってもいいかもしれない。それが、単に蹈鞴を成り立たせるために森を伐り出すとか、森に住む動物たちを殺すとかいう実際的な現象的な問題だけじゃなくって、「自然への畏敬」や「穢れ」や「祟り」といった精神的な面においても自然から脱却したように感じさせる。エボシがその象徴的な存在であって、神を神と思わず祟りもへっちゃらで穢れも知らない人物として描かれていた。シシ神の森のど真ん中で煙を上げながらドンパチやってる場面は驚いたw清浄な地で、よもや人間が足を踏み込んで荒らすとは…。そうした人間側の対立軸として自然と中立的なアシタカやサンが出てくるんだろうけど、それも時代の変化をより明らかに示す道具立てになっていたんじゃないのかな。。全体的な時代の流れとしては、自然信仰の衰退から人間社会の確立といった変遷が物語の背景にあると思う。

■タタリの可視化とエボシ

 はじめにタタリ神を見たときは恐かったことを覚えてますwこの作品そのものは好きだったから、昔は最初のタタリ神の場面だけを飛ばして見ていたように思う。。だって、ウネウネして恐いんだもん。。。それなのに、あれがキーホルダーで売られていたときは正直言って引いたwwみんな可愛いとか言って買ってるんだもん…。だけど、あんな風にタタリを目に見える形で具現化したのって、思えばすごいことかもしれない。タタリってなんとなく理解はできていても、じゃぁ、具体的にどんなものかって聞かれると困るものですよね。だけど、もののけ姫ではそれが絵になって動いているっていうんだからスゴイ!wタタリを誰彼構わず撒き散らすあたりがタタリらしいww本来ならば、タタリを受けたら人間は畏怖の念を抱いて相手へ礼を尽くすわけです。ヒイ様も恭しく敬って塚を築くと言っていました。蝦夷の一族である彼らの祀り方がエボシたちの対比として鮮明に浮かび上がります。
 その一方、エボシは「掟もタタリもへっちゃら」です。もともと、森の主を敬うことなく森林伐採を進めるから猪たちと対立することになったんだろうけど、エボシのスタンスとしては自分たちの利益を最優先に行動するもんだからお構いなしです。ナゴの神の話の行で「お宝の山を見ながら、人間様、指を咥えてた」っていうのが象徴的でしょうか。ここでは「人間様」であって、「神様」とは言わないんです。森や水や火といった恩恵は自然から分け与えられたものっていうのが旧来の発想なんでしょうけど、もはや全て人間のものっていう発想を持つものとして設定されています。そして、人間が管理する。基本的には人間の驕りだっていう意味合いで描かれているのかもしれませんが、物語の最後には人間側と自然の共存を目指すようなオチを用意していますから、そこまで言い切っていない部分もある。
 タタリって思えばオカルトです。今では当たり前なのかもしれないけど、自然との付き合いが間近にあった当時からしてみれば、よっぽど身に迫った観念だったと思います。そして、合わせて考えなければならないのがケガレだと思います。この「ケガレ」って概念は差別的な内容にも直結する部分があるからあまり語られないけど、歴史上から抹殺することはどうかと思う。かと言って、おおっぴらに語るのも憚られる。。微妙だなぁ。具体的な言及は避けますけど、もののけ姫でもこの「ケガレ」について織り込んできているし、エボシはタタリも畏れないだけじゃなくってケガレさえも考えに入れない。エボシは忌むこともしない。女性が蹈鞴場にいることからして、当時ではありえないことだったんじゃないでしょうか。実際に物語の中でも「蹈鞴場に女にいるなんてなぁ、普通は鉄を穢すって、そりゃぁ嫌がるもんだ。」というように穢れの意識を覗かせています。でも、彼女は科学的で合理的なんです。ちょっと近代的過ぎて世界観にマッチしないようにも感じるけど、そこは虚構ですからw
 とにかく、エボシはタタリやケガレといった精神的な呪縛からの解放をやってのけようとするわけです。だけど、そのアンチテーゼとしてアシタカとサンがいて、彼らは自然との共存を求める。エボシは現代人の視点と同じものを作中に与えているし、それに対してアシタカとサンが問題を投げかけることで、視聴者は自然との付き合い方を問いかけられているかたちになるんでしょうか。タタリなんていう日本らしい習俗の一端を作中に取り入れながら、現代社会と自然の付き合い方に一石を投じているあたりが宮崎駿監督作品にしては非常に強いメッセージ性を打ち出していると思います。

■玉の小刀

「どうかこれを、私の代わりにお供させてください。」
「大切な玉の小刀じゃないか。」
「お守りするよう、息を吹き込めました。いつも、いつも、カヤは兄様を思っております。きっと、きっと…。」
「私もだ。いつもカヤを思おう。」

 よく言うよ!wカヤが罰を受けることも覚悟して見送りに来てくれたのに、そこで貰った小刀をサンに渡してしまいます。なんということだ!!ww本当に何回見ても理解できない。。。カヤが可愛そうだ…。っていうか、カヤが息を吹き込めたカヤの分身である小刀をサンが持っていると悪いことが起きるんじゃないの?いくらプレゼントとしては最高の選択だからとは言え、それこそ何かタタリを引き起こしそうwどう考えても、なぜあんな行動をアシタカに取らせたのか、狙いが見えない。。タタリやケガレといった精神的な交渉を描いているんだから、世界観としても一貫性を感じない。作中の感覚からすれば、「おまじない」のかかったプレゼントなだけに下手な扱いをすると何か問題を引き起こしそう…。何か別の設定があるんだろうか?せめて、サンの放った槍がアシタカの胸に刺さりそうなところで玉の小刀があったから致命傷にならなかったとか、そこで割れた小刀を見てアシタカを大事に思う人がいるんだと悟って複雑な表情をするサンとか(いや、恋愛的な意味ではなく「人間らしい」相手を守るという観念を小刀から読み取って、人との付き合いに少なからぬ郷愁みたいなものを感じる的な…。でも、人間らしい感情をサンに持たせたらダメ?だけど、既にサンは人間らしさを持ってるし、いいでしょw)、そんな展開なら納得もできる。
 そもそも、アシタカもサンも人間社会からは異端とされる存在ですから、彼らは同じ境遇でもあります。アシタカは蝦夷の生き残りとして旧来の習俗とエボシの革新的な発想を持つ生き方の中立的な立場として、サンは自然に生きるものと人間との中立的な立場として、互いに意味合いとしては中間者に属します。彼らの恋愛って同じ境遇だったからこそなのかな?サンは「人間は嫌い」と言うけれど、アシタカから貰った玉の小刀は「キレイ」と言って受け取ります。相思相愛なんですねwそんなサンに玉の小刀を預けるっていうのは、アシタカの分身としてお守りをサンに与えるっていう解釈ができるんでしょうか。でも、交通安全のお守りの上にペンで合格祈願の文字を書いたってダメじゃね?wたとえが違うかwwおまじないに「上書き」という機能が存在するのか知らないので、どう考えてもわかりません。

■人間社会への風刺

 結局は、もののけ姫の訴えるところは環境問題なんていう小さな部分だけじゃなくって、人間の合理性によってもたらされる自然との不均衡みないな部分にまで及ぶ精神的なものが大きいと思います。加えて、人間社会の傲慢さ?エボシをいわゆる「人間」の権化みたいに見立てて、それにアシタカやサンという純粋な青少年をぶつけている感じ。アシタカやサンには行動原理に煮え切らない部分のあるところが、いかにも子供っぽい。ジコ坊もアシタカに対して「いや、あいつ、どっちの味方なんだぁ。」と言っています。答えの出ない問いかけほど、合理性にとってやっかいなものはないでしょう。そういった点からも、アシタカとサンはエボシのアンチ足りうる。
 そして、自然と人間の対比だけじゃなくって、人間そのものに対する風刺も痛烈なものを含んでいるように思う。考えすぎと言えばそうなのかもしれないけど、冒頭に掲げた乙事主のセリフがそのひとつ。これって、人間に対するキツイ皮肉じゃない?ポニョを見てもわかるように、宮崎駿監督は作品に巧妙に現実社会に対する皮肉を混ぜ合わせていますから、皮肉と見るのもありえない話ではない。この部分を聞くと、「小さくバカになりつつある」という猪が人間のことを譬えているものに感じます。「ただの肉」っていうのがキツイ。知性ある自前の脳みそで考えて行動する存在から、自分の頭で考えることをしない飼われる存在への転落。。これって、今の社会を批判しているように思えてなりません。名誉のために突進したいという猪たちの姿は、『攻殻機動隊S.A.C. 2nd G.I.G.』での出島の人々の取った「低きに流れる」行為と同質のものです。そういえば、クゼはそんな民衆を憎んでいました。こんな風に読み取ってしまうのは自分の性なんでしょうかw



 そういえば、よく「ジブリアニメ」とか「宮崎アニメ」っていう呼び方を聞くけど、たとえば「押井アニメ」とか「今敏アニメ」とか「大友アニメ」とかは言わないんですよね。ちょっと不思議。それだけ、宮崎駿監督作品がひとつの金字塔としてアニメ界に多大な存在感を与えているんでしょうか。確かに、作品には一貫した「らしさ」があるし、手法や世界観にも独特のものがあると思う。いわゆる「大家」と呼んで然るべき存在なんでしょうね。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/10/26(月) 02:44:48|
  2. もののけ姫
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