土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『シャングリ・ラ』#03「天地層造」

「早いのは嫌われるわよ!」
『シャングリ・ラ』#03「天地層造」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 なんだかモモコ語録になりつつあります…w
 それにしても!いよいよ、たまりません。おそらくシャングリ・ラへのコメントは今回が最後になります。いちおう最後まで見続けるつもりですが、毎回同じこと書いてても仕方ないので。。。
 どうしても文脈が欠落しているようにしか感じられないんです。映像はきれい。だけど、シナリオが…。セリフも説明的な内容が多いわりには重要なところで抜けてたりします。なんだか小学生が作文を作るときに箇条書きに近い文体になることがありますが、それに近いものを感じます。とは、言い過ぎでしょうか?
 この間のアニメージュで「映像文法」なる言葉をはじめて聞きました。アニメでは長回しのシーンは作画の難しさから遠ざけられるそうですが、そこで短いカットを重ねることで物語を展開していくことになります。すると、単体ではただの写真のようなカットであっても、それを連続して画面に表示することでカットとカットの間にある動きや展開が視聴の段階で補われることになります。パラパラマンガのごとく、元来アニメは眼の錯覚を利用して作られるわけですから、本質的に視聴の段階での想像力を要求するものなのかもしれません。そもそもアニメは完全にリアルな絵を追求しているわけではなく、たとえば口パクも不完全だし産毛は見えないし重力や風の影響などを描くことは困難です。だけど、いわゆる「脳内補完」と呼ばれるものに近いんでしょうけど、これを意図的に使うことで実際には描かれていないことも視聴の段階では描いてあるかのように受け止められる。さらには、もっと大きなカットのまとまりにおいて、たとえば「テラテラ光った包丁を持った怪しい男が電信柱に隠れている場面」の次に「女の子が暢気に道を歩いている場面」が示されたとき、受け手には次に「女の子が襲われる」であろうことが予測されます。特にそれぞれの場面が長回しの場面として描かれるわけではないけれども、それぞれの場面が連続して視聴者の目の前に出されることによって、新たな意味合いが伝わる。この有機的な映像の関係性が「映像文法」と呼ばれる作用なんだと思います。
 話は戻りますが、このシャングリ・ラではこの映像文法がうまく機能していないように思います。有機的につながっていない。ドゥオモとアトラスとアトラス公社と軍と…、なんだかいろんな立場の展開が単発的に示されるし、その接続点が今のところほとんど見出せない。ドゥオモ内部の展開にしても、クニコが突然アトラスに潜入すると言い出したのはいいけれど、単にアトラスがどんなところなのか見たいというだけで潜入という危険な行動に出る論理がつかめないし、行ったところで「なんでこんな広いところに私達は住めないの?」という行かなくてもわかるようなことを理解して終わるだけだし、なんだかいろんな思考が短絡的で、背景に隠されるべき論理性がまったく感じられない…。

 ここまで長々と批判めいたことを書いてしまいました。こうなると、よく「じゃあ見なけりゃいいじゃん」という結論を導かれることがありますが、自分はそう思いません。アニメは「見られるため」に作るものだと思います。それは商業的な目的からも文化的な目的からも、自己満足には終わらないより多くの他者に共有されるような作品を作ることが理想であるべきだと思っています。だとすれば、同一のアニメをできるだけ多くの人で共有されることが望まれる。決して、「個人的に楽しむ」という至って非生産的で非文化的な行為に留めてはいけないんだと思います。どんな形であれ、ひとつの作品を受け止めてどのように感じたかを発信することは、「共有」に向けた行動として必要なんじゃないでしょうか。確かにただただ批判するだけのものは「共有」に当たりませんから排除されてしかるべきだと思います。でも、何も受け止めたことを発信することなく「あぁ、楽しかったな」で終わってしまうのは一番よくないと思います。それは「消費」でしかない。もっと人とのコミュニケーションの連環の中に自己の意見を投入しなきゃいけないのではないでしょうか。
 そう考えると、著作権にある「個人的に楽しむ限りにおいては…」とかいう条項は非文化的だと常々思っています。経済的な側面から考えれば当然として使用料を支払って視聴すべきなのでしょうが、文化的な側面からしてみれば共有することこそ第一なわけですから著作権は最もナンセンスな法律だと思います。オーケストラや画家にパトロンがつくように、アニメにも商業主義的な要素を持ち込まないパトロンが付かないかと願っていますし、政府が公的に文化事業の助成としてアニメに対して振興政策を打ち出さないかと期待してやみません。「文化立国」って、ダメでしょうか?w
  1. 2009/04/20(月) 22:39:47|
  2. シャングリ・ラ
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