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土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

『デュラララ!!』#01「開口一番」の感想。

「今思っても不思議だけど、でも、何だかそれは、不思議じゃないような気もして…。とにかく、それは、僕の人生が変わってしまうようなことで、実は、何一つ変わっていないような…。とてもとても奇妙で、けれど、どこにでもある経験をした。この、池袋の街で。」
『デュラララ!!』#01「開口一番」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 さぁて、今期の期待の新星が登場です☆『バッカーノ!』(2007)でお馴染みの成田良悟さん原作の『デュラララ!!』がアニメ化されるということで、どんなものになるのかと思ってたけど…。う~ん、まぁ、初回の印象は良からず悪からずってところかな(^_^;)制作の主要スタッフもほぼ同じままのようですし、見ていて何がバッカーノと違うのか首を傾げるくらいだったwwそこがちょっと不安要素かな?すべてを見終わったあとに、わざわざ改めて作品を作る必要があったのかっていう疑問が出てきそうな気もする…。そもそも『バッカーノ!』と『ヴぁんぷ!』と『デュラララ!!』は同一の世界観を共有する作品だそうで、近しいことは当然なのかもしれないけど。。とにかく、気になった点を具体的に見ていきましょう~。。

■混濁する日常と非日常

「すごい、ネットや漫画でしか見たことのなかった世界が、目の前に広がっている…。」

「僕はここで、この街で、よそでは到底できないような経験をした。今まで、決して手が届かないと思っていた、ありえない現実が目の前に広がっているんだと感じていた。最初に言ったことと矛盾するみたいだけど、少なくとも、このときはそう思っていた。僕は、僕の新しい現実が始まる予感に、震えていた。」

 不死者の次は首なしライダーですかw世界観を共有するとは言え、敢えて設定だけを変えて量産する必要はあったの?そこらへんの真価は今後の展開によって証明されることを期待して、まずは初回を分析していきましょうか。。
 まぁ、身近な現実の中にもファンタジーは転がってるだとか、大げさに虚構を描かずとも現実の中に虚構は散在しているとか、そんな類の言説っていうのはいろんな場面で聞くことがあります。具体的にって言われると、答えられないから根拠はないけど…wでも、現実離れした物語にも大きく分けて三種類くらいあるのは確かだと思う。①完全に現実とは切り離してファンタジーの世界を独立させて描く場合(それでも、現実の世界で生きる人間の習性やら文化といったコードを無視することはできない)、②現実の世界で生きていた人が、ある日、ファンタジーの世界へと迷い込む場合、③現実の世界の中に虚構を含むできごとや存在を登場させる場合、ってな感じ?デュラララの場合は③ですね。
 そして、デュラララの場合には、さらに工夫が見られます。冒頭のセリフにもあったように「とても奇妙で、けれど、どこにでもある経験」ってのが象徴的かな?現実離れした出来事ではあるのだけれど、それはどこにでもあるっていう考え方が垣間見られます。首なしライダーなんてのは確実に非日常の世界を背負った虚構なんだから、それが現実の場面に出てくるっていうのは普通じゃない。そんな虚構の世界が現実の世界に重なってくるようなところをデュラララが描いていると見てもいいのかもしれない。だって、「ありえない現実」なんだけど「新しい現実」なんでしょ?「最初に言ったことと矛盾する」だけじゃなくって、同じセリフの中でも矛盾してるじゃんwでも、これこそ日常と非日常の混濁なんだと思う。あからさまに「ありえない」出来事であるのは間違いないのに、それを現実に起こった出来事として受け止めてしまうっていう現象こそが「新しい現実」なのかな?頭の中で想像していたことが、現実の世界に上書きされて認知されるような感じ。その点、「ネットや漫画でしか見たことのなかった世界が、目の前に広がっている」っていうのは面白い表現だった。主人公の帝人にとっては、現実の池袋よりも先に虚構の池袋が存在していたってこと。単なる先入観でしかないけど、彼は虚構の池袋に現実の池袋よりも広大な幻想空間を見ていたわけで、それを現実の池袋に宛がって認識することになるっていうのが面白い。つまるところ、現実の世界っていうのも、人の身勝手な妄想やら認識によって常に改変される可能性を含んだ空間なわけだから、彼が「新しい現実」を感じたっていうのも、あながち物語の中だけの話ではないと思う。
 他の視点から言えば、要は想像していた池袋が現実の池袋に上書きされるが如く認識されるっていうのがミソなのかもしれない。現実の池袋を直視すれば、それは単なる池袋でしかないのかもしれない。でも、予めネットや漫画で描かれた池袋のイメージをもって池袋を見れば、そこには現実には存在しない情報まで彼は読み取ることになる。カラーギャングにしても、彼はイメージからして派手な抗争やらを思い浮かべて池袋を考えていたんだろうけど、実際にはそれほど活発じゃないって否定されていたしねwまるで和歌の世界での歌枕のごとく、池袋が抽象化された空間として捉えられていた感じ。そんなところにも、日常と非日常の混濁を感じる。
 ややもすれば、この現象ってネットや漫画で語られる虚構の池袋が現実の池袋を規定することになりかねない。もとより、虚構の池袋だって現実の池袋があってこその空間なんだろうけど、それが循環して虚構の池袋が現実の池袋へと回帰していくような関係性が成り立つことになるんじゃないのかな?そう考えると、相互に規定する関係性が生まれるわけだから、そこには有機的な物語の土壌が生まれるんだろうね。

■限定される世界観

 ただし、やっぱり「池袋」っていうふうに切り取っているところがポイントなんだろうね。あそこを他の空間とは断絶されたように思わせるところが、非日常の介入を許す要因になっているんだと思う。
 それに、驚いたのはモブキャラがみんな黒い!wなぜ?色の付いているのは名前のあるキャラクターでしょ?まだセリフがなくってすれ違っただけでも、何人か色の付いているキャラクターはいたけど…。とにかく、モブは全員黒かったし、ほとんど動いてなかったwこれも「切り取り」に連なる手法なんだろうなぁ。。主要な登場人物のみに焦点を当てることによって、他の一般人との関係性やら気兼ねってものを排除してる感じ?キャラクターの数も多くって群像劇と言われてるみたいだけど、そこらへんは限定しちゃってるんだね…。
 最近のアニメでは、こういった手法ってのは常套的になりつつあるのかもしれない。まず『化物語』では主要な登場人物以外は一切描かなかった。無人だったwそれに、『けいおん!』では不自然にも各キャラクターの親が一度も登場しなかった。他にも例を挙げればキリがないけど、どうやら必要なキャラクター以外は排除するっていう傾向があるようにも思える。確かに、昔からアニメに限らず映像作品ってのは登場人物を限定することは行われてきたけど、それでもこういった流れは特化しすぎているように感じる。モブとかパンピーも丁寧に描けば、それだけ世界観も広がりや奥行きを持つことになるんだと思うけどなぁ。。手間がかかるからダメなの?群像劇を描いているわりには、そこらへんの奥行きがなくって、どうも縮こまっているような感じはする。。

■全員が脇役のキャラクター

 相変わらずキャラクターの数が多いように見せ付けてくるwいや、実際はそれほど多くないっていうか、これくらいの数だったら他の作品にも登場させているものはあると思う。基本的に戦艦を持ち出すようなアニメに見られる傾向かな?『機動戦士ガンダム』『機動戦艦ナデシコ』『学園戦記ムリョウ』『宇宙のステルヴィア』『交響詩篇エウレカセブン』『天元突破グレンラガン』なんてのは、名前のある登場人物の数で言ったら同じくらいじゃないのかな?実際にこれらの作品って群像劇の性格も持ち合わせているしね。。そう考えると、何がバッカーノやデュラララの特徴なのかって言うと、それぞれのキャラクターにまんべんなく特色を与えているってこと?逆に言えば、まんべんなく個性がないってことwwキャラの濃いのが何人かいて、脇役と一線を画しているっていうわけじゃない。むしろ、全員が脇役みたいな感じwこれも、裏返して言えば全員が主役ってことwwここで思い起こされるのが、『バッカーノ!』#16「物語に終わりがあってはならないことをキャロルは悟った」での副社長とキャロルのやり取りです。

「副社長?」
「なんだい、キャぁロぉルぅ。」
「結局、このお話の始まりはどこで、終わりはいつなんですか?」
「う~ん、愚問だなぁ、キぃャぁロぉルぅ。ひょっとしてぇ、お前はまだ、この物語の主人公を探しているのではないか?」
「はい。」
「キャぁロぉルぅ、幻想から開放されるのだ。物語に始まりがあり、終わりがあるという幻想を捨てるのだ。物語には始まりなどない。終わりもない。あるのはただ、人と人がつながり作用しあい影響し、拡散していく生のありようだけなのだ。物語に終わりなどあってはならないのだよ、キぃャぁロぉルぅ。」

 なお、「キャロル」の発音は若本仕様で表記していますwなんだか、これが成田良悟作品の核心のように思う…w要は、これって誰でも主人公になれるし、逆に誰も主人公ではないってことでしょ?それは観測する側の人間がどのように物語を構築するかという主観によって変わるだけであって、実際には単に人と人の影響関係が存在しているだけだっていう感じ。それが全員脇役かつ全員主役の仕組みの背景にある発想なんじゃないだろうか。。今回はそれぞれのキャラクターにどんな物語を用意しているのかな?バッカーノで言えばアイザックとミリアを狂言回し的なところに置きながら、ラッド・ルッソとかエニスとかクレアとか、とにかく様々な登場人物に前後の物語が用意されていて、その中の一部だけを作品が取り上げたような恰好になっていた。それがバッカーノの魅力だったし、確かに物語に終わりがないってことなんだと思う。はてさて、デュラララではどのように物語を用意するんだろうか…。

■近似するバッカーノ

 OPを見た途端にバッカーノを思い出しちゃったwキャラの雰囲気も描き方も、バッカーノって感じ。それもそのはず、主要なスタッフは同じなんだもんね(^_^;)バッカーノからは2~3年が経っているわけだし、その分、背景なんかにはバッカーノとの違いを感じるけど…。そんな似ているところを多く感じると、ひとつの不安が出てくるんだよねぇ。。だって、バッカーノと同じことやるんだったら、新しい作品とは言えないし、やる必要がないじゃんwただ単に、キャラクターの面の皮を変えて、舞台を池袋に移して、趣向を不死者から首なしライダーに変えただけってなったら、デュラララって何なのかってことになっちゃう。。バッカーノと同じ要素を感じ取るってのは別に悪いことじゃないけれど、それだけに終始してしまわないかが心配ではあるかな?まぁ、同じところと新しいところを見比べながら見ていくって感じで。。



 なんだか背景がキレイでしたねぇ。そこらへんはバッカーノからの進化を感じる…wでも、あれってキャプチャーなのかな?まるで実写の池袋にアニメのキャラクターが登場して物語を展開しているような構図でもある。。これって、狙ってるの?現実と虚構との混濁を描く上では、実際に絵柄も実写という現実とアニメのキャラクターという虚構を融合させたってことなんだろうか…。読みすぎかなwアニメの映像もデジタルちっくに描く方向と、アナログちっくに描く方向とに別れるようだけど、それぞれの良さを見極めて使って欲しいところです。さぁて、『デュラララ!!』はこれからどうなることやら…。



テーマ:デュラララ!! - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/01/07(木) 00:01:00|
  2. デュラララ!!
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