土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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「文化庁メディア芸術祭2009」受賞作品詳細情報の感想。

 2009年度(第13回)文化庁メディア芸術祭の受賞作品贈賞理由や審査員講評などが公開されました。今回はそのリアクションを書いてみます。主に、問題と思っている『東京マグニチュード8.0』の贈賞理由や「該当なし」が出ないことについて、講評やら贈賞理由を読んだ上での感想になります。それぞれ講評や贈賞理由を引用しながら、それに対して受け止めを記述していく感じになるかな。。ちなみに、守備範囲はアニメーション部門の長編(劇場公開、TV、OVA)になりますので、あしからず。一言で感想を言えば、何のためにこんな賞を設けているのか、わからなくなってきたwもはや形骸化の謗りを免れないかもしれない。。まぁ、2007年度(第11回)での鈴木伸一さんの総評に「異論がある人や作品を見る機会がなかった方は、この結果をもとに、もう一度受賞作品を見てくださるとうれしい。」とあるように、この芸術祭は「こんな作品もありますよ」という広告塔としての意味合いがあるということは間違いないんだろうけど…。




■受賞作品への贈賞理由に対するリアクション

 この贈賞理由って誰が書いてるんだろうね…。署名記事にしてもらえると、どんな色合いで書かれたものなのかが解って理解にも助けとなるんだけど。。ちょっと、どんな立場から書かれたものなのか、はっきりとしない部分があって何とも言えない部分もある。


《サマーウォーズ》

 この作品はまだ見ていないので、具体的なコメントは見てからにしたいと思います。だけど、ちょっと気になった点もあるので、少しだけ。。
 アニメ選定の基準って何だろうと考えたときに、どうやらアニメ制作の過程における苦労やらスマートな制作の組織的システムなんかも評価の対象になっているように思う。たとえば、今回の贈賞理由の中にも「一般的に作家がほしいと思う要素は製作の過程で摩耗していく。理想と現実とがせめぎあった結果、ほしかった物の多くは消失し、わずかに残ったとしても変質の憂き目にあうのだ。」というアニメ制作の現場における苦労が語られたり、「業ともいえる過剰な情報量を制御し、観客と共有できる作家の術とそれを支持し完成に導いた製作者チームの成果」などと制作の過程に言及があったりする。思えば、2007年度(第11回)での『カイバ』の贈賞理由の中にも「監督の湯浅氏は(中略)商業目的の枷に囚われることのない作品づくりに挑みつづけている。その揺るぎなき姿勢にも心動かされる。そして、これらの野心的アニメーションが大人のためにつくりつづけられ、観客に受けいれられる環境こそ豊潤の証と信じたいし、その出資制作体制が衰えることなく発展しつづけることを願いつつ、この果敢な挑戦に惜しみない拍手を送りたい。」などとあった。どうやら、できあがった作品そのものに対する評価はもちろん、その作品の完成に至るまでの制作環境なども考慮に入れているらしい。確かに、作品の質が高ければ、それを裏打ちするだけの制作環境があって然るべきではある。
 とは言っても、そこまで言及するのはどうなんだろうねwこれは贈賞理由を書いている人の単なる僻目にも思える。。だって、いい作品の背景にいい制作環境があるのは当然のことじゃん。それを、ことさらに言及するっていうことは、何か別の意図があるようにしか思えない。この記事を書いている人が、実際の現場で思うようにアニメを制作できなかった不満やら鬱憤やらを晴らしてるんじゃない?wそんな主観的とも言える悲痛な訴えとともに、充実した制作環境へのエールを送っているということになるんだろうか。。それにしても、贈賞理由の場を借りて言うことでもない気がする…w


《東京マグニチュード8.0》

 贈賞理由を読んで笑ってしまったw下手したら、この贈賞理由すらこの作品を否定しているように読めなくもないんじゃないだろうか…。
 この作品はアニメの冒頭でテロップを流して、わざわざ「本作品は首都圏での巨大地震発生を想定し、膨大なリサーチと検証に基づいて制作されたフィクションです。リアリティーを追求し、十分なシミュレーションを経てオリジナルストーリーを構築しておりますが、演出上、実際のものと描き方が異なる場合があります。」と断っている。はじめから「フィクション」として自称していながら、「膨大なリサーチと検証」を行って「リアリティーを追求」したとするドキュメンタリーちっくな方向性も併せ持っていた。すでに、この時点で少なからぬ矛盾を感じた。フィクションをやりたいの?ドキュメンタリーをやりたいの??それらを融合させたような斬新なアプローチを見せたいの??
 フィクション=虚構とリアリティー=現実の対立は垣根があってこそ効果を発揮するものであり、それを取り払っては意味がないと思う。最近は『電脳コイル』や『デュラララ!』のように虚実の混濁を描く作品もちらほら出始めてはいるけれど、それも虚実の境目を意識してこその内容になっている。完全なる作り物語の世界も含め、共通するのは現実には有り得ない作品空間における人間模様などに、現実にフィードバックすべき要素があることだと思う。フィクションの中にはリアルに還元されるべき展開が用意されている。現実を遠ざかった虚構空間だからこそ描ける内容だって存在するわけだし、その点でフィクションの効用というのは認められるものと思う。
 しかし、その虚実の垣根を取り払ってしまっては、虚実皮膜の論とはまた別の話になってしまう。実際に、この作品は前半こそテロップ通りのことを実行していたようだが、後半では主人公の内面に迫った単なるフィクションになってしまっていた。そもそも、この作品は前半と後半で作風が変わってしまっている。いったい主人公の内面をどのようにリサーチして検証したのかわからない。いや、それこそ「○○症候群」と名の付けられている、災害時に発生する症状の一例として挙げられた「リアリティー」なのかもしれない。けれども、フィクションとして描こうとしているのかドキュメンタリーとしてリアルに描こうとしているのか、その目的が不分明なだけに受け止めも曖昧になってしまう。斬新すぎて感受性が追いつかないだけなのかもしれないけど…w以下、贈賞理由に対する逐字的な感想です。

「すべてのアニメはフィクションでありファンタジーだ。」
その通りだと思います。すでにアニメはキャラクターという現実の人間をデフォルメした映像を用いて表現している時点で、確かにフィクショナルな要素を潜在的に持ち合わせていると言えます。そういったメディアである以上、シナリオがどんなに頑張ったところで、ノンフィクションを描くことは不可能です。ただし、すべてのアニメを「ファンタジー」と言うには、見識を疑います。ファンタジーをどのように定義しているんですか?ストーリーに作為が働いている点では共通するところがありますが、決してフィクション=虚構と同義に扱っていい言葉ではないと思います。

「たとえ事実に基づいた物語であろうとも。」
あ、倒置法を使ったんですね。「事実に基づいた」は、この作品の「膨大なリサーチと検証」に対応する言葉だと理解しました。しかしながら、「リサーチや検証」はあくまで「予測」や「類推」といった一般例を示すものであって、個別の具体的な「事実」そのものではありません。如何にリサーチなんかを下敷きにしようとも、アニメがフィクションを脱出することはできないと思います。断る必要もなく、アニメは厳然としてフィクションです。

「かつて、この種の題材を扱った作品の多くが、その恐怖を迫真に描写しようとして、作画、美術に高いクオリティを求め、そのことで作品をいっそう「優れた空想(ファンタジー)」としてしまっていた。」
ん?具体的にどんな作品を想定しているんですか?アニメで地震などの災害を扱った作品は…、あったかな?具体名を書いて欲しいところです。まぁ、災害をより迫力のあるものとして演出しようとすれば、それだけ現実から離れることになるっていうのは肯けます。すでに、そういった特殊な体験は日常の生活領域に存在しないものであり、災害そのものが非日常性を持っている以上は虚構となってしまうのも当然のことです。必然的に災害を描けば非日常性を持つことになってしまうので、「してしまっていた」などと、あたかも「できなかった」かのように言うのは適当ではないように思います。どうやったところで、災害は非日常のものです。大地震が毎日起こっていたら身が持ちませんwあ、ファンタジーを空想の意で理解しているんですね。虚構と何が違うんですか?

「しかし、震災とは「現実」なのだ。本作のスタッフはそのことに対しきわめて自覚的だ。」
震災が現実に起こることであることは間違いありませんが、それは日常ではありません。ここで言う「日常」とは精神的な意味での「こっち」「ケ」「いつも」と呼ばれるものであって、その意味で「現実」や「リアリティー」と同義であると考えます。一方、「非日常」とは「あっち」「ハレ」「特別な」と呼ばれるものであって、その意味で「虚構」や「フィクション」と同義となります。しかし、震災を現実だと言った場合には、物理的な事象としての「現実」であって、精神的には「現実」足りえません。なぜなら、震災は毎日起こることのない特別な出来事であって、その意味では精神的に「虚構性」を持つものだからです。さっきまでは精神的・抽象的な意味での虚実を論じていたように思っていたのに、どうも話をすりかえられているように思います。「きわめて自覚的だ」というのは冒頭のテロップを言っているのでしょう。

「中盤からの展開で、本作は単なるファンタジーから超現実になった。」
中盤で作風が変わったことは衆目の一致するところなんでしょう。しかし、やはりファンタジーをどのように定義しているのかわからない。しかも、新たに「超現実」とか言う言葉まで持ち出してきました。意味がわかりません。超現実とは現実を超越したという意味で、この人の言うフィクションやファンタジーと同義になってしまうのではないですか?ファンタジー=空想と考えても、「空想から超現実になった」と理解したところで呼び方を変えただけにしか思えません。もはや、空虚な言葉を並べ立て、かっこよく見せているだけにしか受け止められません。

「多くの視聴者が終盤に主人公の姉がたどり着いた場所に心を震わせたはずだ。」
いえ、震わせませんでした。彼女がたどり着いた場所とは具体的に何を指しているのですか?抽象的な意味合いで言っているものと思いますが、説明が足りずに要領を得ません。後半の文脈から循環させて考えれば、要は彼女の感じた喪失感のことを言っているのでしょうか。自宅に帰ってみれば日常の風景が崩壊していたという喪失感のことでしょう。しかし、起こり得る可能性を含むことから震災への警戒心やケーススタディー的意味合いを持つとしても、あくまで作品としては非日常を描いたものであることは否定できません。主人公の主観的な内面へと舵を切った時点で、一般的なリサーチ結果からは離れてしまい、彼女の具体的な行動記録とともに個別な一事例としての意味合いしかなくなりました。あれは彼女個人の行動や結果であって、誰それにも共通する震災の現状ではありません。

「父、母、兄、姉、弟、妹、祖父、祖母、恋人、親友など。」
この単語が帰結する述部が見当たりません。文法的にまったく浮いた言葉ですし、柔軟に受け止めようとしても意味が理解できません。次に出てくる「何気ない日常でこそ大切にしなくてはならないもの」の具体的な事例なんでしょうか。

「本作は私たちの暮らす世界のもろさを思い知らせてくれただけでなく、何気ない日常でこそ大切にしなくてはならないものを思い出させる。明日、私たちの大切な人は失われてしまうかもしれないのだ。」
確かにレインボーブリッジが壊れないなど、「もろさ」はよくわかりました。しかし、首都高の倒れ方は阪神淡路大震災を模倣したものだったし、フジテレビ本社ビルは倒れないし、いろいろと疑問符の付く場面はありました。なんだか、後半の文章は中学生が良い子ぶって書いた読書感想文みたいですねw具体的な話がないので、薄っぺらく感じます。

「本作の表現する「喪失感」は本物であり、その意味において他に類をみない傑作である。」
何を以て「本物」と言うんでしょうか。繰り返しますが、震災は非日常であり虚構です。最初に言及していたように、すべてのアニメはフィクションです。まるで誰もが体験しうる震災被害を示したものとして、その身近な意味を以て「本物」と考えているようです。しかし、フィクションであるからには、こういった具体的かつ個別的な事例を一般例として敷衍した理解を行うわけにはいきません。


 なんだか、ずいぶんと感情的な贈賞理由だったように思う。作品を客観的に分析して評価するわけではなく、むしろ記事を書いている人物自身の表現の場として贈賞理由が書かれている感じがする。ちょっとヒドイかなぁ。。
 っていうかさ、この贈賞理由は鋭いところも突いている。中盤からの展開を前半と弁別して考えているのは肯けるし、この作品が二つの意味での「現実」の狭間で右往左往していたことも象徴的に指摘されている。結局、冒頭のテロップで示された方針は最後まで貫かれなかったというか、中途半端になった感じだった。ドキュメンタリーちっくにやろうとしたのに、結局は単なるフィクションに落ち着いちゃったしね。別に斬新にフィクションとドキュメンタリーの融和みたいなアプローチを提示することはできていなかった。それに、具体的な震災の事象を描くばかりに、それに対する精神的な受け止めのどこまでを「事象」として扱うのか、という境界線が曖昧になってしまったのも不味かった。主人公の受け止めは個人の感想なわけだから、そこまでを「現実」だとか「リアリティー」だとか「リサーチの結果」と言うことは無理筋と言うものだ。そんなふうに考えると、この贈賞理由もこの作品の痛いところを突いているとも読める。どうしても積極的に評価しているようには見えないんだよねw
 つまるところ、この作品は「リアリティー」という言葉のもとに、「事象」と「心象」の区別も付けられずに踊らされていたって感じ。まとめかたもスマートじゃなかったし、虚実の境界線を整理しきれずに仕上げてしまった点で何がしたいのかわからなっくなってしまった。結論として、やはり受賞不適当と判じる他ない。実験作や意欲作と言ったとしても、「傑作」だなんて口が裂けても言えないよw

■審査員講評

 どうやら、今年から一人ずつの講評になったみたいです。これまでは「総評」と「長編」と「短編」のジャンルごとに三つの講評があったのみ。こちらは署名記事だから、人となりもわかって面白い。ここでは鈴木伸一さんの講評を中心にして他の方のコメントも交えながら、逐字的な感想を書いていきます。ただ、すべての文面にコメントしていては紙幅に制限があるというか、面倒なのでw部分的に気になった言葉を取り上げながら読んでいきます。


《鈴木 伸一(アニメーション部門主査/アニメーション監督)》

「今年の応募の特徴として商業的な作品(長編、TV用、OVA)より、短編作品の数が増えたことだった。」
いやぁ、ホントにそうですよねぇ。。もっと長編にも頑張って欲しいところです。特にオリジナル作品が少ないことは嘆かわしい。作家の創作性が最大限に発揮されるような制作環境の整備も含めて、商業的な側面も併せ持ったような秀逸な作品が出てくることを期待します。どうやら他の審査員の講評を見ても、短編にばかりコメントが集まっていて妬けちゃいますw

「メディア芸術祭では応募という形式をとっているので、巷では評判が高い話題作でも応募していただかなければ審査の対象にはならない。」
これ、樋口さんも指摘してるんだよねぇ。。樋口さんは「今回入賞した作品を凌駕する可能性のある作品が応募されていない残念な現実も忘れてはならない。自薦が原則なので仕方ないが、今まで完結していない物語に対して評価を保留してきた結果なのだろうか。」と言っています。何か受賞作より高い評価をしているような具体的な作品があるんだと思う。何を想定しているのかな?受賞していなくって評価が高そうなものと言えば、俎上に上るのは『崖の上のポニョ』とか『イヴの時間』とか『かんなぎ』だろうか。どれも『東京マグニチュード8.0』よりも秀逸であることは、比べるまでもないwっていうかさ、こんな「入賞した作品を凌駕する」なんて言ってしまったら、今回の受賞作品を否定してるようなもんじゃないかww何か臭いよなぁ。。該当なしにすればいいのに、なんでわかってて無理に選ぶんだろう。。

「優秀賞は議論百出、結局は表現、内容が個性的なものへ集約していった。」
やっぱり、『東京マグニチュード8.0』は個性的ってだけだったんですねw贈賞理由を正当化できるだけの特殊性を持っていたという無難さからの選定だったと見受けられます。

「国内の受賞作はそれぞれ特徴をもった作品になった。実験的なもの、いつ発生するかわからない超大型地震の悲劇を扱い警告的な意味を含めた作品、そして懐かしい風景の中に展開される切ない恋物語…。この他、限られた数の賞には入らなかったが優れた作品が多かったことを報告しておきたい。」
他にもあるんだ。。決して、受賞作品をもろ手を挙げて推すってわけじゃないんだね。さっきの「巷では評判が高い」っていう言及と合わせて、どうも怪しいw


 なんていうか、歯に物の挟まったようなというか、歯切れの悪い感じがする。。

■機能していない評価システム

 そんなに応募のなかった作品に未練があるなら、「該当なし」にすればいいじゃないか!2008年度の総評では幾原さんが「最終審査の過程で、このジャンルからは「今年は受賞該当作品なし」という厳しい声もあった」とある以上は、そういった発想がないわけじゃないんでしょ?それなのに、なぜ積極的に評価をするわけでもなく『東京マグニチュード8.0』なんかを入れたのか、まったく理解できない。いったい、どういう評価基準でやっているのか…。

「映像作品というものは観る人の知識と好み、思い入れなどにより評価が大きく左右されるものだが、毎年行なわれている文化庁メディア芸術祭では、その年の審査委員の構成にもよるが、数あるジャンルから順当な作品が選ばれていると思う。商業作品は巨額な資金が投入されるため、話題性や認知度でヒットに結びつける場合もあるが、この審査では作品の内容、クオリティが優先される。今年も芸術性、おもしろさ、内容の新しさ、作家の意気込み、将来性など諸々を考慮に入れての選考となった。」

 2007年度の総評で鈴木さんはこのように書いています。これを読む限りでは絶対評価を行っているようにも見えるけれど、実際はそうじゃないように見える。だって、『カイバ』と『東京マグニチュード8.0』を優秀賞という同列に置くことは、明らかに同じ評価を与えているものとは思えない。年度ごとに評価基準が変わっている、相対評価に落ち着いていると見るべきじゃないのかな?ってことは、この受賞作品が決して作品の質を保証されたわけではないということになる。他にも問題点は多く出ている。
①相対評価に陥っているため、絶対的に作品の秀逸さを保障するものではないこと。
②応募のない作品が選考の対象とならないため、すべての年度内作品における評価とはならないこと。
③国の内外を問わず、作品の大小長短を問わず、作品の制作方法を問わないため、ジャンルが幅広くなり過ぎており、同一の評価基準によって選定するには限界が出ること。
④完結していない長期的な作品をどの段階で評価対象とするのか明示されないこと。あるいは、どの段階を作品の完成と捉えるのか明示されないこと。

 この④については樋口さんが「企画そのものが大型化する風潮の中、1年ごとのタームのどの段階でどう判断するのか、評価する側も試される時がきたのかもしれないのだ。」と指摘しています。もはや何のために贈賞・受賞するのかわからなくなってきている。受賞作品が必ずしも胸を張って推薦できるような作品とは言えない状況は、「こういう作品もありますよ」という広告塔としての役割も半減してしまう。やはり、このままでは形骸化の謗りは免れない。
 ひとつには、メディア芸術祭の意味をこうも考えられると思う。つまり、どんなアニメが優れているのかという価値観について、プロと視聴者の相互な共有と循環をもたらす場がメディア芸術祭なんじゃないだろうか。たとえばその循環を言えば、プロが秀逸と認める作品を選ぶ⇒視聴者もそれを見る⇒どういった作品が優れているのかという感覚を賛否を含めて反芻しつつも共有する⇒芸術性の高い作品に注目が集まる⇒アニメ作品の評価に議論が活発となる⇒より上質とされるアニメが評価される風潮が作られる⇒制作側もそういった風潮の後押しを受けて作品を作る⇒さらにプロが秀逸と認める作品を選ぶ…みたいな。これって、メディア芸術の底上げになるんじゃないのかな?より芸術性の高いアニメ作品を作る土壌が作られるようになるわけだから、これこそ理想とする制作環境作りの必須要件でしょ?視聴者の後押しというのは大事だよwそれに、視聴者を育てなければ、需要が生まれないだけにその手の作品は生まれない。そんな意味合いをメディア芸術祭に求めることもできるんじゃないだろうか。。



 はてさて、長くなりました。来年度はどうなるんだろうね?今のところ『デュラララ!』や『とある科学の超電磁砲』が良さげではあるけど、相変わらずオリジナル作品の活気がないw今年こそ何か大粒の作品が出てきてくれればいいなぁ、と夢を見ながら今年もアニメを見続けますw

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/02/01(月) 00:01:00|
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