土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『南海奇皇-ネオランガ-』全48話の感想。

「まるで、楽園ね。」
「まだです。でもいつかは本当の楽園にしてみせます。」
「本当の楽園って?」
「バロウ島みたいな、誰も私達を支配したりしない、見えない何かに操られたりしない、心のままに生きていける世界です。」
「私が言ったのは違うなぁ。」
「えっ?」
「この街で生まれて育って、仕事に就いて、私からしたら最初からここは楽園なの。そこにはルールがあるわ。でもそれは、みんなが気持ちよく生きていくために必要なのよ。たとえば、あなたたちには学ぶことがいっぱいある。だから学校に行く。それは、あなたたちを縛るためじゃない。そこを楽園にするためのルールなのよ。」
『南海奇皇-ネオランガ-』#43「贖われる聖域」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 もう、ぐっちゃぐちゃ。脚本・演出・作画・世界設定などなど、すべてにおいて崩壊していたwOPがかっこいいし、基本的な世界観やら素材は良かったのに、中身の本質的な部分は残念だったね。。いわゆる、OP詐欺ってやつですかw申し訳ないけど、あまり長所として挙げるべきところがない。。こんなに最後まで見るのが辛かった作品ってのも珍しいね(^_^;)ただし、#41「変革のイブキ」と#42「神なき國の神」だけは妙に作画と演出が良かったwなんだろね。。途中の話は本当にヒドい有様だし、#41から先を見れば事が足りるような感じがする。あ~、疲れたw

■支配からの脱出と魂の独立

「支配か…。そうかもしれないな。でもね、海潮ちゃん。何かに支配されないで生きていくことなんてできないよ。僕は正しい道を示したいんだ。君は、人が人を殺してはいけないと言ったね。それはなぜだい?」
「理由なんかありません。私はそれが当たり前だった。」
「つまり、君一人の正義だ。それじゃダメなんだよ。神がそれを禁じた、その一言で君は正しくなれる。」
「そんなの…。」
「誰かに言って欲しかったんじゃないのかい?何が正しいのか。でも、それがわからないから、必死に自分だけのルールや正義を作り上げてしまう。今の日本の若者はすべてそうだ。自分だけの価値観で生きている。だから、誤る。だから、正しい人殺しだってあると思い始める。それじゃ、辛いだろ。正しいことはたった一つ、神の言葉だ。そうすれば、君たちは楽になれる。なぜ生きるのか、何が正しいのか、もうそんな悩みはない。」

 一貫したテーマを考えると、これになるんだろうか。基本的に「楽園」っていうのを目指すところが本旨になるんだろうけど、じゃぁ具体的に楽園をどのように考えるのか、あるいは魂の独立をどのように考えるのかといった部分が示されていない。確かに言葉の上では端々に出てきてはいるんだけど、それが何ら具体的な行動なり真理を伴わずに上っ面だけで語られるだけに、どうしても説得力を持たない。結局、結論はなんだったの?支配を肯定したの?否定したの??それすらも投げ出しているように思う。言いたい放題に取っ散らかして、片付けもせずに終わりにしてしまったという感じが強い。散らかした部分も何か法則性なり筋の通る部分があるのかと思えば、必ずしもそうでなくって場面ごと話ごとにコロコロと変わってくるから理解のしようがない。考えるだけ無駄って思えてしまう時点で、アニメとして失敗してるよね。。
 あくまで好意的に解釈したとすれば、言いたいこともわからないでもない。社会のしがらみに始まる支配からの脱出っていうのは普遍的に多くの作品で共有される内容ではあるし、その点は共通の思想的基盤をもとに敷衍して考えればこの作品の言いたいことも理解できる。だけど、何も具体的な事例を示すには至らず、ただ言葉だけが空虚な響きを持っていたに過ぎないと思う。

■空虚な正義と崩壊している設定

 一番の落ち度はセリフやナレーションでの「正義」「善悪」「楽園」「メディア」「ルール」「日本」「宗教」といったような鍵を握る言葉が、すべて中身のない言葉面だけに終始してしまっていたところにあると思う。散々、偉そうに正義を語っているけれども、その実体がなんなのか描かれない。言葉だけは繰り返し出てきて、さも重要なキーワードのように聞こえてくる。しかしながら、その言葉の意味合いを規定するべき具体的な事象について描かれないため、結局は空虚な言葉になってしまう。だから、他の作品で行われている意味合いを敷衍して考えざるを得なくなるし、それは、この作品が一個の作品として意味を成さずにいることを表している。確かに正義や善悪っていうのは90年代のアニメにおける一つのキーワードではあったかもしれないが、それを語るだけの内容をこの作品は持っていなかった。
 何より、社会的な内容を前面に出しているにも関わらず、社会のルールや通常の反応といった当たり前の社会を描かなかった点ですべてが台無しになっている。もはやランガに関する超法規的な措置を当たり前のように描いている時点で、社会に対するアプローチを放棄した虚構の世界としてしか受け止められない。ランガが動くたびに街が破壊されるのに、なぜ人々はランガを許容しているの?現実では有り得ない。なぜネオランガがいるだけで暫定独立領になったの?それはアメリカが背後にあるだの虚神会との絡みがあっただの、いろいろと理屈はこじつけていた。けれども、実際にそういったことが現実社会で認められるのかと言えば、もっと複雑な判断過程を伴って、ああまで簡潔に認められるものではないと思う。そういったリアリティーのない世界を描きながら、社会に対していろいろと疑問を投げかけてくるから具合が悪い。何がしたいのかわからないw
 また、宗教についても取り上げたかったみたいだけど、その点も考證が不十分だった。第一、藤原は祭祀を司る氏族だっただの、その末裔だのと言っていたにも関わらず、後半になって蝦夷の道を逆に辿るとか言っている時点で馬脚を現したと言える。藤原一族がなぜ蝦夷の立場で物を言っているんだい?バカでしょwもはや腹立たしいくらいにメチャクチャな設定になっていた。勝手にやってくださいって感じ。タオは道教の発想だろうし、アニミズムやら多神教やらも出てくるし、もはや何も事を理解せずにミキシングしたとしか思えない。いや、宗教というのはそういうものなのかもしれないが、それを理解した上でやっているようには決して見えなかった。
 っていうか、なぜ三姉妹を殺そうとした藤原と仲良くしゃべってるの?まったく理解できなかった。まるで島原家が楽屋で、そこを一歩出たら敵と味方に別れて戦いを始めるっていう感じ。そこらへんのキャラクター設定に関しても疑問が多々あった。セリフにまったく脈絡がなく、ちょっとした行動なり発言に極めて抽象的な論議を持ち込んだりしていた。こじつけというか論理の飛躍としか見られず、話をすりかえているようにしか受け止められない。まるで作者の考えている世界観なり思想といったものを、キャラの口を借りてシステマティックに代弁しているだけのように思える。まったくキャラクターが物語の中で生きていない。

■社会性のあるアニメとして

 これが80年代のアニメだったら、まだ理解できた。社会の総体だとか総意といったものが未発達な段階で、まだまだ国民的アイドルだの国民的愛唱歌と呼べるような曲が存在しているような時代だったならば、ああいった個々が身勝手に動くっていうのも理解できる。だけど、この作品が選択している時代っていうのは、逆でしょ?近々の作品として『ガサラキ』があるけれども、それは社会の無責任さや無関心といった極めて現代的な社会を扱っていた。なぜネオランガだけ旧時代的な社会を扱ってるの?これでは懐古的な作品としてしか見られない。どうも新旧の社会に対する認識と、社会からの束縛を受ける受けないという選択と、その二項対立を大きく捉えていたように思える。だけれども、具体的なレベルで上手く整理をつけることができず、両者入り乱れてぐちゃぐちゃになってしまった。
 途中で悪役たる藤原が旧来的な社会の復興や共同幻想の共有による国民意識の再統合を図っていたけれど、最終回までにそれを否定するような場面がなかったように思う。あのままでは、この作品が藤原の発言を肯定していたのか否定していたのかすらわからなくなってしまう。彼は本当に悪役として描かれていたの?それとも真実を語ったキャラクターとして捉えていたの?そこらへんもわからない。ホントに散らかし放題だよねw

■宗教性・思想性について

 そもそも、信仰の対象として実際的な支配力を有するランガやスーラや虚神といったものを考えている時点で意味不明。だいたい、神の存在っていうのは抽象的なものであることが多いと思う。というより、だって神様って実態がないじゃんwそれなのに、ランガみたいな実行力を持つ存在を神として崇めるっていうのは、まるっきり現実を離れている。

「虚神は所詮、くぐつだ。人は導けない。」

 と、お兄ちゃんは言っていた。だから、わかってたのかなぁ。。う~ん。中身がないだけに、考えるだけ無駄だよねw

■他のアニメとの関連から、ポストモダンへの反発

 『ガサラキ』もそうだったし、『機動戦艦ナデシコ』もそうだったし、時流は「それぞれの正義」や「大衆の総意」といったようなものを扱うようになっていた。基本的に「大きな物語の喪失」を感じさせるような流れだし、なかば意識的にやっていたのかもしれない。なのに、この作品ときたら時代に逆行しているような感じがする。あたかも「大きな物語」を復活させようとしているように見えるし、海潮の言う支配からの脱出っていうのも、新たに台頭してきた自己を規定してくる社会っていう存在を否定するものだった。懐古的というか、保守的というか。。
 そういった意味では、昔ながらの地域的な集団生活のありようを描けていたのは『ひぐらしのなく頃に』だった。あそこで描かれる村の掟なりオシラ様への信仰というのは、まさしくネオランガが語ろうとしていた内容と共通するんじゃないかとも思う。だけど、『ひぐらしのなく頃に』は具体的な話を通してそういった概念を描出していった。けれど、ネオランガは口先ばっかりで何もやらなかった。



 っていうかさ、なんで最後の最後で宇宙とかワームホールとか赤色巨星とかSF展開を持ってきたの?w端々に散りばめた意味不明な主張なり思想の提示っていうのも決着をつけずに終わってしまうし、ただ魂の独立について何となく終わったように見せかけているだけだった。もはや作家の身勝手な発想なり考え方を無闇に垂れ流しているだけで、何ら作品としてのまとまりや終着点を示さなかった。うんざりって感じだね。。とは言え、90年代後半のアニメって出色するような作品が多いよね(^_^;)確かにネオランガは微妙だとは思うけど、こういった実験的とも言える作品が出てくるっていうのは大事な土壌だと思う。やっぱりエヴァの成功が背景にはあったのかな…。今のアニメ作品群に比べれば、ネオランガのほうがよっぽど意味のある作品だったようにも思う。骨があるもんね…、骨だけだったけどw

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/02/06(土) 04:00:00|
  2. 南海奇皇-ネオランガ-
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

コメント

まぁその辺の色んな不満点は、ネオランガの影響を色濃く受けた(というかぶっちゃけパクリ)作品である「なるたる」を読めば解消されるかと。

ネオランガも結局はああいう事をやりたかったんだろうなぁと、「なるたる」を読めば理解できると思います。

ネオランガの場合はTVアニメである点と、主人公達をあくまで良い子として描いてしまった事で、テーマ的に突き抜けなければいけなかったトコロで突き抜ける事ができなかったせいで、何とも中途半端な印象になってしまったんだと。
もしネオランガを最後まで突き抜けて描く事ができていたなら、きっと「なるたる」のような結末になっていたのではないかと思わされます。
  1. 2013/07/15(月) 19:36:58 |
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  3. #-
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『なるたる』は未見なんです。すいません、次に読んでみます。
それにしても、影響を受けた『なるたる』を読めば、『南海奇皇』がわかるというのも奇妙ですね。
1990年代後半の作品が持つ雰囲気というのには独特なものを感じます。
南海奇皇の検索から当ブログに入る方が多いようですが、それだけ、他サイトで取り挙げられることが少ない作品ということなんでしょうか。あるいは、それだけ人を惹きつける作品だとか?

久しぶりにコメントを頂いて、びっくりしましたw
コメントありがとうございました。
  1. 2013/07/29(月) 22:19:57 |
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  3. 土星蜥蜴 #-
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このコメントは管理者の承認待ちです
  1. 2013/11/06(水) 15:36:26 |
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  1. 2014/01/28(火) 17:21:19 |
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