土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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規制する社会集団×反発する個人×ダークヒーローの台頭

 怒濤の勢いで記事を上げていると、さすがに疲れてきます…。。基本は一日にひとつずつって感じでやってるんだけど、ときどき面倒になるんだよねぇ。。ただアニメを見てればいいじゃんって気分になってしまう。。まぁ、そんなときは昔の記事を読み返しながら、思考の形跡を残す意味合いを確認して新しい記事を書いています。このブログって基本は覚書というかメモぐらいの意味合いでしか書いてないからねww重いアニメと軽いアニメを交互に見ながら、適当にやり繰りしますさ…。今日はこれで10000字を超えましたwさすがに記事を三つも立て続けに書くのは厳しいよ(^_^;)




 最近の重い部分を扱ってるアニメって、だいたい社会と個人の駆け引きみたいな要素を含んでいることが多いように思います。社会は集団として規律を守るように個々人に対して制約を加えてくるし、もっと言えば個人がどんな生き方をするべきなのかといった部分まで規定することさえある。公共の精神ってのは集団で生きていく上で大事な発想だろうとは思うし、そういった観念がなければ社会集団なんて簡単に崩壊してしまいます。だけど、一方ではあまりに規制をかけすぎると個々人の自由度が低くなってしまう。社会から自己のありようまで規定されることは、楽な側面もあるけれども、自分自身の本来的な欲求や意識っていうのは抑制されることになる。そこのバランスをどう保つのかっていうのがひとつの問題になるんだろうし、その点について取り上げるアニメが少なからず出てきているっていうのは興味深いと思います。
 たとえば、さきの『機動戦士ガンダムUC』だって、主人公のバナージはオードリーという他者から自己を規定してもらいたがっていた。「必要だと言ってくれ!」っていうのは、他者から自己の存在を求められたいという意味合いだろうと思うし、それは内発的に存在理由を自己内で作り出しているわけじゃない。むしろ、外部社会に自己の存在理由を依存している感じに見える。これからどうやってバナージを転がすのかわからないけど、とにかく、バナージというキャラクターを通して個人とそれを取り巻く社会との関係性に言及しようとしていることはわかった。
 ほかにも、『東のエデン』や『化物語』や『攻殻機動隊S.A.C.』や『BLACK LAGOON』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』が具体的な作品として挙げられると思う。
 『東のエデン』では「空気」がキーワードになっていた。日本の社会を取り巻く重苦しい空気感がどこからくるのか、そういった視点を持ちながら、主人公の滝沢が社会に向かって立ち向かっていく感じ。基本的には『攻殻機動隊S.A.C.2ndG.I.G.』でやっていたことを焼きなおしたようなもんだったから、まぁ、そうなるよねw無責任な大衆とか動機のない他者とか、そういった有象無象をどうやって変えていくのかみたいな部分があったと思う。ここでは個人と社会の関係がどうのというわけじゃなくって、社会に対する不満の発露というか、社会に規定されて安穏としてしまっている個々人たちが描かれているように思う。『攻殻機動隊S.A.C.』シリーズもそんな感じ。「笑い男事件」で取り上げられていたスタンドアローンコンプレックス現象だって、基本的には個人と社会の関係性における現象だった。
 『化物語』ではキャラクターを決めるのが集団における「空気」であるというような側面が表れていた。おそらくは無意識のうちに描かれていることだろうとは思うwスルガはなぜキャラクターを演じているのか。。「空気を読む」とはどういいうことなのか。スルガは他者との関係性において、自己ならざる自己を表に出して日々と生きていたわけだけど、その抑制された部分が澱のようにたまった結果、レイニーデビルという怪異になって表に出てしまった。自己の所属している集団から求められている自己のありようを演じるということが、結果的には本来的な自己を抑圧することになるっていう現象がそこには表出していたと思う。
 『BLACK LAGOON』はそんな規定する社会からの脱出を図ったロックが主人公になっている。アウトローの空間としてロアナプラが設定されており、そこを舞台にロックが行動することによって、彼岸と此岸の対比構造を持ちながら、現在の日本社会のありようが浮かび上がってくる。
 『コードギアス 反逆のルルーシュ』はそういった自己を規定してしまう社会システムに対する反逆だった。ルルーシュの行動は鋭く現代社会の矛盾を突いていると思うし、スザクとの対比においては規定に従属するスザクとの好対照が印象的だった。社会に従属して生きることの意味なんかがスザクを通して問題提起されていると見えるし、そんな社会を形成するために犠牲になっているナナリーのような弱者がいるっていうことも事実だろうと思う。
 自我の確立や自己の発見といった類の話は、ジュブナイル的な要素とともに昔から描かれてきた部分ではあると思う。『機動戦艦ナデシコ』だって、「それぞれの正義」って言うだけに、個人個人の意志っていうものを社会よりも尊重する態度を示していて、「みんなの正義」を共有する時代が終わったことを告げていた。ポストモダンの流れとともに、そんな風潮を感じさせる要素は細かいながらも他のアニメでも散見されていたとように思う。だけど、ここにきて社会に対する反発とともに描かれる側面があることは興味深い。極端な例を言えば、『DEATH NOTE』なんてのは「Lの裁き」によって既存の社会を破壊していたしwダークヒーローの台頭ってのも、そういった背景があってのことだと思う。ただ、どれひとつ取っても問題提起を行っているに留まってしまっており、最終的に解決を導くことのできている作品がないっていうのが残念なんだよねぇ。。そこらへんが作品の限界なんだろうか。。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/03/03(水) 03:38:06|
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