土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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客体化する主人公

 少し前になりますが、『舞勇伝キタキタ』が発売されました。第一巻のときからそうなんだけど、あえて店員さんには「『舞勇伝キタキタ』はどこに置いてありますか?」と聞くようにしています。あれ以上、目立つような表紙はないんだけどねw案内されて店員さんが表紙を見た瞬間に、「ぷっ」って笑われちゃったよww




 『デュラララ!』といい『東のエデン』といい、ちょっと主人公の扱いが変わってきたように思う。二つとも主人公が主人公スキルを持ってないんだよねwまぁ、『デュラララ!』はそもそも全員が脇役みたいな感じで、話の筋によって中心に躍り出てくるキャラクターがいるっていうくらいだった。それに、『東のエデン』は滝沢朗が主人公なんだろうけど、彼だって主役っぽく目立った立ち回りはやったことがないし(全裸でホワイトハウスの前に立っていたことはあるけど…w)、むしろ森美咲や板津といった他のキャラクターのほうが濃いものになっているし、群衆を代表する咲の心理が大きく取り上げられていた。あんまり目立たないというか、なんというか…。主人公にとって都合のいい展開を呼び込むためのフラグを立てるとか、どんなキャラクターにも気にかけてもらえるような目立つ属性を先天的に与えられているとか、そういった能力を持っている人物が出てこなかった。加えて、彼らは自分を中心とした物語世界を作ろうとしていない。彼らが何をしたから世界が変わるってこともないし、こういう生き方をしたほうがいいというような模範的なキャラクターの成長譚として描かれるわけでもない。あくまで一事例としての分をわきまえつつ、それでいて世界につながっていこうと働きかけを行うような姿勢を持つようにも見える。
 アニメがヒーローを失って久しいと思う。ずいぶん前は判然と正義と悪を分けて熱血ヒーローを登場させていたし、その次はクヨクヨした主人公の成長譚が描かれるようになった。そして、次には社会の持つ矛盾や憤懣といったものの表出としてダークヒーローが出てきたけど、それから音沙汰がないwこれら三者は違うように見えるけれど、実際は「セカイケイ」として括られることがあるように、主人公の活躍によって世の中のありようがどうこうするというパターンで共通している部分がある。そもそも「セカイケイ」なる言葉の定義も曖昧だからあんまり使いたくないんだけど、要は主人公の活躍によって、国家とか社会とか細かい実際的な影響関係を抜きに、世の中が破滅したり生存したりああだこうだする骨格を持つ物語のことと勝手に考えるwそういった場合、従来のヒーローってのはおおよそ当てはまるんだよね。当たり前だけど、どのアニメも主人公が中心にいて、主人公の行動によって世の中の命運が変わったりしていた。でも、誰もがヒーローとして扱うようなキャラクターって、一番新しいものでも『コードギアス 反逆のルルーシュ』でのルルーシュくらいでしょ。彼はダークヒーローだろうけど、立派に中心に位置する主人公として往生を遂げていたw
 ところが、『デュラララ!』と『東のエデン』って中心に主人公がいないんだよね。『デュラララ!』はさっきも言ったように全員脇役みたいな感じだから、そもそも主人公っていう感覚がないに等しい。登場してくるキャラクターが互いに作用しながら物語が進んでいくから、特に誰か人物を定めて成長を描くわけでもない。誰かの行動によって世の中がどうこうするっていうこともない。平気で超然とした関係に登場人物が位置付けられているっていうものだった。『東のエデン』はと言えば、滝沢朗は英雄や救世主として持ち上げられはするけれども、むしろ描かれるのは滝沢の行動によって右往左往する群衆のほうなんだよね。確かに滝沢朗は主人公だろうし、彼の行動によって世の中がどうのこうのと動くのかもしれない。だけど、彼の苦悩や葛藤よりも、それを持ち上げたり降ろしたりする咲を代表とした群衆の心理にスポットがあてられていると見たほうがいいと思う。この作品を見ていると、どうもアニメが作ってきたヒーローっていうものに一石を投じるような機運を感じる。
 いわゆる「セカイケイ」では、主人公以外のキャラクターっていうのは主人公に重要な示唆を与えたり、主人公とケンカしたり、そういう対主人公的な役回りとして他者が登場してきていた。それは、とりもなおさず主人公の心理描写に重きを置いた結果だし、主人公を中心に据えるっていうのはそういうことなんだと思う。だけど、今回の『デュラララ!』や『東のエデン』っていうのは主人公が脇役にどう影響を与えるかっていう部分にシフトしているように見える。『デゥラララ!』では、たとえば帝人はダラーズの創始者としてダラーズという共有空間を提供していたわけだし、『東のエデン』の滝沢朗は世の中の空気を変えるためにニートたちを取りまとめて次世代のエネルギーとするにはどうするのか奔走した感じだった。主人公は単に他の登場人物をつなぐパイプ役としての役回りを演じているだけで、他者が主人公に対して何か示唆を与えることはあまりない。何か話の中心としての役割という意味での主人公であって、彼らを中心に物語世界が動くわけじゃないんだよね。。狂言回し的な主人公と言ったほうがいいんだろうか。。そういった意味でも、主人公の扱いが「セカイケイ」とはずいぶんと様変わりしているように思う。
 思えば、『サマーウォーズ』が家族のつながりや有機的な人間関係を謳ったのも何か縁があるのかもしれない。あれも細かい設定をすべて無視して陣内家という世界にすべての物語を集約している点では「セカイケイ」と呼べる部類に入ると思われる。だけど、そこでは主人公に対して世の中が何か動いて主人公が変わるのではなく、主人公が動くことによって世の中が動いていく。まるで「セカイケイ」では主人公が太陽の位置にあってその周辺を様々なキャラクターが取り巻いていた様相から、主人公が周辺の惑星のどれかにあって太陽という物語の主軸を中心に周っているような変化だと思う。そんな変化の兆しが『サマーウォーズ』にも垣間見られたように感じる。世界は主人公という自分を中心に構成されるのではなく、自分も世界の動態の一部でしかないという感覚の芽生えなのかもしれない。主人公の行動を起点として、それを他者がどう感じているのか、多様にその模様を捉えることがあるように思う。視点が中心からズレてきた。そうなると、全員が脇役としてそれぞれのキャラクターの個性の引き出しに成功している『デュラララ!』や、主人公を世の中の「損な役回り」をやる人物として描いた『東のエデン』も、たくさんの親戚という脇役を弄して家族のありようにスポットを当てた『サマーウォーズ』も、主人公がどう変わるのかではなく、主人公をどう見るのかという「客体としての主人公」が成立しているように見える。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/03/28(日) 00:01:00|
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