土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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「つくられた人間」考―ホシノ・ルリ、ベアトリーチェ・ラティオ、エウレカ、キース・アニアン、ニア・テッペリンの系譜―

「私は反対です。遺跡を壊せば歴史は変わる。戦争は起きない。すべてチャラ。でも、大切なものも壊してしまうじゃないですか。」
「私の大切なもの、このナデシコでの一年間の生活。その思い出が私のすべてです。与えられた記憶でなく、自分で勝ち取った記憶。それがすべてです。チャラになんかできません。艦長、あなたにとっての大事なものって、いったい、なんですか?」
『機動戦艦ナデシコ』(1996)最終話、ホシノ・ルリの発言より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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久しぶりの更新です。少しずつ、書き溜めます。最近、ゲームにはまってしまってアニメを見ていません。今はガサラキを12話まで消化しました。

ホシノ・ルリ…『機動戦艦ナデシコ』(1996)
ベアトリーチェ・ラティオ…『ジーンシャフト』(2001)
エウレカ…『交響詩篇エウレカセブン』(2005)
キース・アニアン…『地球へ…』(2007、ただし原作は1977)
ニア・テッペリン…『天元突破グレンラガン』(2007)

 これらの登場人物は自然分娩によって出生した人間ではありません。ただし、ベアトリーチェ・ラティオについては出生は詳しく明かされていませんし、厳密に言えばこの括りにまとめることは正しくないのかもしれません。ただし、これら五人は基本的に人間を客観的に観察することによって、しだいに「人間」の生き方に同調して人間らしい人格を形成していきます。このような役割を持つ人物を登場させることで、作品にどのような効果を与えているのでしょうか。また、このような人物が連綿と作品に関わり続ける背景にはどのような影響関係があるのでしょうか。まずは一人一人のキャラクター分析を行うことで、その性格を検証していきたいと思います。

ホシノ・ルリ…『機動戦艦ナデシコ』(1996)
 ホシノ・ルリは遺伝子操作によって生み出され、機動戦艦ナデシコのオペレーティングシステムである「思兼(オモイカネ)」とのコンタクトをナノマシンの作用によって円滑に進める能力を持っています。身体的な特徴としても「金色の瞳」をしており、それは同じ遺伝子操作によって生まれたラピス・ラズリにも見られるものとして劇場版に登場していました。テレビアニメ#01では11歳の年齢設定が与えられ、基本的には彼女一人の操作によってナデシコのシステムが統括されている事実は若さに釣り合わない「異能者」として描かれます。それと同時に、何事に対しても無表情・無感動の人間としても描かれており、それはナデシコのクルーの間でも共有された認識だったことが「ルリルリが笑ってる…」(#23「『故郷』と呼べる場所」より、ウリバタケ・セイヤの発言)という驚きをもった発言によってわかります。序盤では他のナデシコクルーと一線を引いた場所でしか関わりを持つことができず、それは彼女にとって理解のできない非合理な行動ばかりするクルーを客観的に捉えた「バカばっか」という口癖によって表現されていました。
 こういった背景には、彼女が幼少期より人との関わりを持つことのない教育プログラムによって育てられたことがあると考えられます。この英才教育のために人より秀でた能力を獲得する一方、人とのコミュニケーションを機械的な反応の連鎖としか受け止めない性格の根本がこの教育プログラムによって与えられたものだったと#18「水の音は『私』の音」によって想定されます。ただし、明かされた段階ではすでに彼女はナデシコクルーとの人間関係に積極性を見せ始めているときであり、作中では彼女の過去を辿る物語として現在との対比が鮮明に映し出されていました。
 この作品ではメインストーリーが進むにつれて脇役であるはずの彼女の成長も同時に進められる展開となっており、序盤では無表情・無感動だった彼女が最終話では積極的に自らの意見を述べて他者との関係性を尊重するようになります。そこで、「私は反対です。遺跡を壊せば歴史は変わる。戦争は起きない。すべてチャラ。でも、大切なものも壊してしまうじゃないですか。」や「私の大切なもの、このナデシコでの一年間の生活。その思い出が私のすべてです。与えられた記憶でなく、自分で勝ち取った記憶。それがすべてです。チャラになんかできません。艦長、あなたにとっての大事なものって、いったい、なんですか?」といったセリフが登場することになります。これはフクベ・ジン提督の「ナデシコは君らの船だ。怒りも憎しみも愛も、すべて君達だけのものだ。言葉は何の意味も持たない…。」(#07「いつかおまえが『歌う詩』」より)という発言を受けて捉えるべきで、そこには作品を一貫して「ナデシコ」という小さな虚構のコミュニティーにおいて現実で想定される様々な人間関係を演出しようとする狙いが見え隠れしていると受け止められます。
 このような「宇宙を航行する船の中」という仕切られた空間で「コンパクトな社会」という舞台を演出して種々の人間関係を提示する方法は『無限のリヴァイアス』(1999)や『交響詩篇エウレカセブン』(2005)など後続の作品にも見られる設定と言えるでしょう。ただし、この設定が『宇宙戦艦ヤマト』(1974)によるものなのか『超時空要塞マクロス』(1982)によるものなのか、あるいは別の典拠があるのかはいまだ遡及することはできていません。ナデシコではこういった設定に加えてホシノ・ルリというキャラクターを用いることによって、そこで展開される人間関係を客観視するとともに人間関係のありようを浮き彫りにする効果を持っていると言えるのではないでしょうか。ある意味では「人間」ではない存在が「人間」を客観視して獲得される視点がそこには内包されており、一般的な環境の中で育ったわけではない特別な存在である彼女を配置することによって、単なる人間関係のありようから一種の普遍的な性質を視聴者に提示する作用が働いていると考えられます。彼女のような存在が作中で精神的な成長を見せることによって、ひいては作者の狙いを的確に伝える役割を果たしているとも言えると思います。作品は確かに虚構ではありますが、ホシノ・ルリの存在がこういった機能を果たすことによって作中のできごとを現実での生活へとフィードバックさせる「日常への回帰」を促すものと理解するべきだと考えられます。

ベアトリーチェ・ラティオ…『ジーンシャフト』(2001)
 彼女もまた戦艦ビルキスのオペレーターとして物語に登場します。この作品では、完全なる遺伝子操作によって男女の出生バランスや能力などを様々に調整し、そうして成り立つ世界を舞台にしています。理想的に調和された社会であり、登場する人物もそれぞれの能力に応じて役割が与えられ、あるいはその役割に応じて能力を宛がわれることになります。彼女も予め「アマギワ・ヒロト」というビルキス艦長のサポート役兼監視役(作中ではレジスタと呼ばれる)としての任務が与えられ、それに適した能力を設定されていました。そのため、その任務の上で不必要な感情は制限されており、その一方ではオペレーションのために必要な能力に特化しています。この点では、先ほどのホシノ・ルリと同質と考えられ、同様の作用を働かせるものと考えられます。ただし、ナデシコでの場合とは異なる展開として、大きく「愛」が取り上げられたことが特徴として挙げられます。次に#09「人間以下」でのベアトリーチェ・ラティオとマリオ・ムジカノーバの会話から当該の例を挙げます。

「子どもの頃って覚えているか?」
「レジスタは不要な記憶はデリートされます。脳に余計な負荷がかかりますから。」
「そうだったな。俺の記憶も負荷になっているんだな。記憶ってやつは厄介だな。いや、思い出って言ったほうがいいのかな。生きていると、いろんな人と出会うよなぁ。そして、別れる。それが、思い出となるんだ。死という別れもある。しかし、死も思い出もたいしたことじゃない。人とはDNAという単なる記号であり、記憶はただの経験値に過ぎない、俺達はそう教えられた。」
「それが真理です。」
「本当にそうかい、ベアトリーチェ?あんたのよく回る頭でもう一度よく考えてみてくれ。」
「仰っていることがよくわかりません。生物とはDNAが作り出している蛋白質の集合体であり、物質に意義などありません。生命にとってDNAの記述こそが唯一無比の存在です。」
「そうだよな…。昔なぁ、愛という概念があった。知っているかい?」
「かつてヒトが持っていた、種族保存のための拡張機能的感情ですね。」
「愛には逆境も乗り越える力があったってさ。」
「非論理的ですね。きっと、神話的伝承です。」
「愛ってのは、思い出とよく似ている気がする。」
「不必要だという点では類似しています。」
「いや、なんていうのかなぁ。生きている実感、そんな風なの、ヒトに与えてくれるものじゃぁ、ないのかなぁ。」
「あなたはその感覚を持ったことがあるんですか?」
「正確にはない。でもなぁ、こうやってさ、人を抱きしめているとき、愛かなって思うときがあるのさ。ベアトリーチェはどう感じる?ビルキスのクルーたちとの出会いが思い出になる。だから、みんなを愛している。俺の前で、誰も死なせない。昔は、愛する者を守るために死ぬことが男の役割だったんだってさ。」

 レジスタであるベアトリーチェ・ラティオも、ある意味においては「人間」ではない存在と言えるのではないでしょうか。DNAを操作され、なおかつ幼少期の記憶を消去された状態にあって、無感情の人間がどのように愛という感情を受け入れるのか、という点がこの作品で取り上げているひとつの題材なのだと思います。ナデシコでは広く人間関係を捉えていましたが、ここでは個人的な相手との関係性を取り扱っている点で特徴的と言えます。DNAによって感情や思い出を徹底的に否定する象徴でもあるレジスタが、マリオ・ムジカノーバとのやり取りによってそういった感情の存在を認めなければならなくなる。そうすることによって、否定するべき存在が認められるために「人間らしさ」のようなものが強調されることとなります。
 本来ならば、「愛」という感情もDNAに組み込まれているのかといった視点が必要となる問題ではありますが、ここで行われている表現はあくまで客観的に人間の諸現象を捉えることで「人間らしさ」を浮かび上がらせることであると考えられるため、問題とするべきではないと思います。ここでは人間社会にとって調和をもたらすためには感情や思い出は不必要という考え方が流れており、それゆえに調和された社会が実現したところで本当に人間社会と言えるのかといった問いかけが内包されていると見るべきではないでしょうか。したがって、この作品では特に「人間」と「人間でないもの」が対置されることによって虚構が組まれており、「DNA=人間ではないもの」と捉えるならば、人間が人間ではないものによって構成されているという矛盾を浮き彫りにします。それは「社会=集団」と「人間=個人」という対立図式に置き換えることも可能であり、社会=集団に帰属して生活しながら同時に人間=個人として存在する葛藤に還元することもできます。
 ここまで、ベアトリーチェ・ラティオがホシノ・ルリと同様に「人間」と「人間でないもの」という対立図式とともに「人間社会」に対して客観的な視点を投げかける作用を持っていることを確認しました。

エウレカ…『交響詩篇エウレカセブン』(2005)
 エウレカは、ついに本当の「人間ではないもの」という位置付けで登場します。それは生物的にも(DNAまで模倣させたかどうかは別の問題とする。)人間とは異なる生物であるという設定によるものです。彼女は「コーラリアン」であり、人間の動向を観察するための一種の「生きたレコーダー」として機能します。ただし、レントン・サーストンやホランド・ノヴァクといった他の登場人物からは厳然たる「人間」として認識されています。




覚書
 ちなみに、彼女たち(キース・アニアンを除く)の肌は真っ白です。おそらく、極限まで真っ白なのだと思います。これは「人間ではないもの=血の通わない」という意識によるものなのでしょうか。とにかく、キャラクター・デザインにおいても「人間ではないもの」としての存在を印象付けるための設定が行われている点には留意すべきだと思います。
 「人間」という言葉を連発していますが、しっかりと定義する必要性を感じています。これらの作品では人種といった概念はほとんど表に出てきません。むしろ、名前や肌の色などはごちゃまぜであり、国籍というよりも「地球人」という意識のほうが対宇宙の世界観の中で強く出てきていると感じられます。そういった場合に「人間」という言葉を使うと、少し今の概念規定とはズレるのかもしれません。また、DNA操作やらナノマシン技術やらによって人間の存在そのものが変質する場合もあるため、一様に「人間」や「人間らしさ」などと言うのも曖昧過ぎるとも思っています。ただし、そういった設定はすべて今の現実社会との対比すべき虚構として構築されるものと考えられるわけですから、あながち今の意識における「人間」という概念から発想しても構わないのかもしれません。
  1. 2009/05/05(火) 16:38:05|
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  1. 2012/12/21(金) 13:54:48 |
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