土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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作品を消費するのか消化するのか

 世の中は上海万博での「パクリ」騒動などで賑やかである一方、asahi.comで「真似こそ文化の原点」と見出しの付けられた記事を見かけました。うぉ、いい記事かなぁと思って読んだら、そうでもなかった…かなwあんまり踏み込んだ記事でもなかったし。。今回は真似やパクリやオマージュやパロディーといった問題から話を始めて、アニメが経済と文化の間でどのように振舞うべきなのか考えてみます。

【記事の出典リンク】asahi.com 2010年4月22日15時26分掲載分
「真似こそ文化の原点 『1Q84』もまた…」
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004220285.html




 記事では経済動向にも「真似」の原理が働いていて、先般の村上春樹著『1Q48』の売れ行きが好調な遠因も内容云々だけでないのではないかとの見解を示しています。
 要は、「他の人が買って読んでいるから、自分も買わなければならない。」という真似する気持ちを購買意欲のきっかけに考えているということだと思う。中身には関係なくねwごく簡単に言えば、ミーハーだっていうこと?wwあ、これ記事で言っていることを解釈したものですから。
 考えてみれば、この行為って文化的な共有関係を望むってことだよね。記事の中でも、真似をすることが文化的に脈々と続けられてきた営為であることに触れられていた。でも、真似をすることは商標権だの著作権の侵害で違法行為とされる点では経済的・社会的に真似を認めていない一方、購買意欲の一端を真似の意識が担っているというのは、どうも矛盾しているように感じる。利益を守ることこそ第一であると考えれば、一貫性も保てるんだけど…。
 そもそも、言ってしまえば日常で使っている漢字は中国原産の文化でもある。日本文学の代表として世界に羽ばたいている『源氏物語』だって、その中身には「長恨歌」の内容を踏まえた表現は多くあるし、日本の正史たる『日本書紀』には『史記』や『漢書』といった史書から丸ごと引用が行われていることは近年の研究でも明らかになってきているところではある。とは言っても、別に蒼頡や司馬遷の子孫あたりに著作権料を支払っているわけでもないし、もとより許諾をもらっているわけでもないw文化的に交流しているうちに、自然と共有するものができているわけであって、むしろ文化的な観点から言えば共有されることは豊かさの原点として考えるべきことでもある。
 だけど、そんな文化的所産の使用や改変に対して著作権を支払わなくてもいいのはなぜか。すでに権利者が死んでいるからだよね?wそれと、まだ法律が定まっていなかったから。要はお金に関わる利害が発生しないから、共有するためにまぁまぁ無断で利用することは認められているっていうことで考えてもいいと思う。言い換えれば、著作権などの考え方っていうのは利害こそ第一義であって、文化的な倫理観云々はまったく関係ないということだと思う。
 でも、あまりにもお金勘定のために文化の自由な広がりが阻害されるっていうのも世知辛いというか、粋じゃないよね。むしろ何のお金勘定もなしに文化的な豊かさを求めるならば、どんどんパクられて真似されたほうがいいと思う。当然、その中では単なる真似や模倣は排除される価値観を形成することを前提にしてのことだけど…。今現在作られている多くの文化的所産が、過去の作品の土台の上に成り立っていることを、もっともっと知らなければならない。
 そんなこと言っても、やっぱりクリエーターが職業として成立する背景には、そういった著作権などによって利益の保護が保証されていないといけない。だからこそ、敏感に作品の盗用が問題視される必要はある。だけどねぇ。。そこらへんのバランス感覚は難しい。経済的な感覚から言えば著作権は守られるべきことは言うまでもないけれど、文化的な観点からすれば著作権は悪法ということになるw
 では、『1Q48』の売れ行きが好調な背景に真似の原理があるとの見解はどうなのか。これは経済的な利益関係と文化的な共有関係が奇しくも一致してしまった珍しい例なのかもしれない。確かに、日常の些細な購買にも真似の原理を汲み取ることはできると思う。けれど、それは文化的な共有の意識とは別の考え方のような気もする。『1Q48』の売れ行きと文化の原点たる真似を結びつけて考えるのは当たらない。なぜなら、たとえ『1Q48』を誰もが買っているからと言って自分も入手したところで、その享受の実態には何ら模倣や改変といった作品の展開が含まれないだろうからだ。そういった文化的に積極的な展開は他の場面で進行するものであって、おそらく『1Q48』を買った「ミーハー」な人々は単に消費するのみで終わると思う。文化的な意味での真似とは、一過性の「消費」ではなく「次」への作用を含む「消化」に近い感覚で受け止めるべきではないだろうか。

 さて、アニメに話を広めてみたい。
 アニメの放映に際して「最近インターネット上でのテレビ番組の不正利用が多発しております。番組を権利者の許可なくインターネットなどを通じて配信することは法律で禁じられておりますのでご注意ください。」とテロップを流す作品は多い。当然、これは権利者の利益を保護する目的で注意されるものなんだろうけど、権利者=クリエーターでない場合もあるので微妙なところ。そこんところはグレーな感じだけど、とにかく利益を守るために注意書きをするわけだと思う。当然、これは某動画共有サイトなどを想定してのことだろうし、言ったところでイタチゴッコになってしまうのは目に見えている。あくまで「注意」としているところがムフフな感じではあるw
 アニメに関しても、文化的な共有関係を発展させたいと考えるのであれば、権利者云々を言わずに作品を湯水の如く際限なく放出することが望ましい。けれど、それではアニメ産業が成り立たない。ここでも、そのバランス感覚に悩みを抱えることになると思う。規制を金科玉条の如く適用すれば文化として広まるスピードは極端に落ちるだろうし、かえって規制しなければアニメを作る側が生きていけなくなる。難しいなぁ。。
 ただし、アニメは本質的にパロディーやオマージュを好む。自分自身が先のごとく注意書きを出しておきながら、既存の作品を下敷きにした表現を次から次へと繰り出すことは少なくない。アニメは自ら今まで積み上げてきた自分のアニメ文化を「消化」しつつ、新たな文化を紡ぎだしている。そういった内部的な性質もあることを考えれば、アニメは著作権に対してあまり強く乗り出せない気質を潜在的に持ち合わせていることになる。さらには、アニメの視聴者が「MAD」と呼ばれるパロディー郡を生産していることも同じ資質を共有するものであると思う。
 単に作品の消費を促すような経済的感覚による権利の行使は文化を廃らせる可能性をも含む。今のところ、作品を「消費」するのではなく、上手いこと「消化」しつつ次へ蠢いているアニメ業界の資質は失わないで欲しいところでもある。なんとか文化的な資質と経済的な利益を両立させるようなシステムは設計できないものだろうか、と思うけど、難しすぎてわかんないw秋葉原をハリウッドにしようと言っている政治家もいるけれど、ハリウッドにはしてほしくないなぁ。。アニメはアニメだもの。

追記:『WEDGE』の吊り広告で「共感消費」という単語を使って上述の消費行動を表現していました。ぴったりの表現だったので、あっと思ったwっていうか、流行ってるの?w

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/04/26(月) 00:01:00|
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