土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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自己規定をするキャラクターと多用されるモノローグ

 久しぶりの時評です。今月は半舷休息的に二日にいっぺんのペースで記事を書いてるから、楽だ…ったはずだったw先月とか先々月はほぼ毎日のペースで書いていたから、少し疲れたんだな。いろいろとやらなきゃいけないことも増えてきたから、少しペースダウンするつもりだった。けど、結局はなまけちゃって、あんまり変わらないんだよね(^_^;)しかも、このペースだと旧作に対する記事を書く隙がなくって、新作モノばっかりになってしまった。ダメだ…w

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。





 最近の作品を見ていると、キャラクターの内面をセリフで説明ちっくに言ってしまうものによく出会う。つまり、「今の自分の気持ちは○○なんだ」と自己暗示のようにセリフとして表現する作品が多いように思う。ナレーションで説明したり、キャラクターが自分の気持ちを自分で分析してみたり、他のキャラクターが勝手に内面を分析していたり、妙に作品自身が自らの表現しようとしていることを説明しているように受け止められる。昔からあったんだろうけど、なんだか妙に目に付くようになった。
 そう思うきっかけは『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:破』(2009)の式波アスカだった。新しくなったエヴァはどのキャラクターも口数が多く、全体的に自分で自分の気持ちを口に出して説明してしまう場面が多かった。シンジもアスカも綾波も、今の自分がどんな気持ちでいるのかを具体的なセリフによって雄弁に語っていた。まずは、アスカが決戦を前にしてミサトに電話をしている場面から、該当するセリフを抜き出す。

「どうしたの?アスカ。本番前に…。」
「なんだか、ミサトと二人で話がしたくってさ。」
「そう…。今日のこと、改めてお礼を言うわ。ありがとう。」
「礼はいいわ。愚民を助けるのが、エリートの義務ってだけよ。もともとみんなで食事ってのが苦手だし…、他人と合わせて楽しいフリをするのも疲れるし…、他人の幸せを見るのも嫌だったし…、私はエヴァに乗れればよかったんだし…、もともと一人が好きなんだし…、馴れ合いの友達はいらなかったし…、私をちゃんと見てくれる人は始めからいないし…。成績のトップスコアさえあれば、ネルフで一人でも食べていけるしね。でも、最近、他人といるのもいいんだって思うこともあったんだ。私には似合わないけど…。」
「そんなことないわよ。アスカは優しいから。」
「こんな話、ミサトが始めて!なんだか楽になったわ。誰かと話すって、心地いいのね。知らなかった…。」
「この世界は、あなたの知らない面白いことで満ち満ちているわよ。楽しみなさい…。」
「うふっ、そうね。ありがとう、ミサト。」

 そもそもTV版でこんな場面は用意されていなかったので、これは新劇場版でのみ見られる場面だった。新劇場版ではキャラクター設定からしてTV版と大きく方向性が異なっていたように思う。シンジはそれほど引きこもりちっくじゃなかったし、綾波は積極的にシンジに対して好意を持っていたし、この三人の三角関係がわかりやすく手料理を作る行為によって演出されていた。口数の多いセリフ回しもそうだし、この手料理もそうだし、どれを取っても新劇場版では「わかりやすさ」を意識したのか明瞭な表現が多いように感じた。ここで掲げたセリフに関しても、アスカが自分の心境について自己分析し、それをわざわざミサトに伝えているところが気になる。ここらへんのアスカの性格面に関しては、TV版ではセリフとして示されることはほぼなく、その行動やシンジに対する接し方といった部分から読み取ることのできるものだった。それを、新劇場版ではわざわざ自己申告させている。特に、最後の「最近、他人といるのもいいんだって思うこともあったんだ。私には似合わないけど…。」というところに関しては、「私には似合わない」という客観的な視点から自己分析を行ったうえで、さらに自分の心境の変化までをも提示する。徹底した分析っぷりを見せるw
 こうやって自己のありさまを吐露する背景には、何があるんだろうか。わざわざミサトに独白することから、アスカは自分のことをミサトに見ていて欲しいという一種の甘えに似たような感覚があるようにも感じられる。自分はこういう人間なんだということを自ら申告することによって、それが他人に共有されるものなのか、それを確かめるような行為でもある。それはそれで、狙いのある意味のある表現なのかもしれない。ただし、自分の気持ちを自分で説明させてしまう点については、先の「わかりやすさ」を追い求めてのことのように感じる。もしも他人に認めてもらいたいアスカを描きたいのであれば、ここまで雄弁にさせる必要性もない。

「ずっと、一人が当たり前なのに、孤独って気にならないはずなのに…。」
(アスカ、シンジの横に移動して)
「こっち向かないで。七光り、ちょっとだけ、いさせて…。」
「あのぅ…、式波さん?」
「今日、どさくさに紛れて、名前呼んだでしょ?特別にアスカでいいわよ?私もバカシンジって呼ぶから。」
「じゃぁ、アスカはどうしてエヴァに?」
「愚問ねぇ。黙ってなさいよ、バカシンジ。自分のためよ、エヴァに乗るのは。あんたはどうなのよ?」
「よく、わかんない。」
「あんたバカ?そうやって責任逃れしてるだけなんでしょ?」
「父さんに誉めて欲しいのかなぁ。今日は、初めて誉めてくれたんだ。初めて誉められるのがうれしいと思った。父さん、僕のこと認めてくれたのかな?ミサトさんの言っていた通りかもしれない。」
「あんたって、ホントにバカね。」

 この場面でも同様に口数多く語っている。最初の「孤独って気にならないはずなのに…。」というセリフは明らかな蛇足に感じる。わざわざセリフにしなくても、一人寝が寂しくてシンジの横に移動する行為だけでも伝わる内容ではあるし、アスカの表情を描くだけでも充分に表現できるものだと思う。ところが、わざわざセリフにして意味合いの裏打ちを行っている。シンジに関しても、「父さんに誉めて欲しい」という気持ちを自分から打ち明けており、ゲンドウに対するシンジの向き合い方が明瞭簡潔になる一方でギクシャクした煮え切らない関係という意味合いが薄らいでいる部分もある。

「ママ…。」
「自分だって子どものくせに!」

 実は、この場面はTV版でも同様の場面があった。とは言え、キャラクター設定が異なるだけに意味合いが変わるのは当然のことなので、安易に比較できるものではない。しかしながら、その表現の方法に関して言えば、明らかな隔たりがある。TV版ではアスカが自分の気持ちを説明することなどなく、自室からトイレへと行った後にシンジの横に倒れこむように寝る場面になっている。シンジはアスカの胸を近くで見てドキドキする様子が描かれ、そのあまりに無防備な姿からキスをしようとするのだが、「ママ」と寝言を言いながら涙を流すアスカを見て、「自分だって子どものくせに!」と強がるアスカに対しての不満を口にして次のカットへと移る。セリフなどたったのこれだけになっている。とは言え、アスカが孤独を寂しがる姿は充分に描かれているし、アスカとシンジの関係性に関しても、強がるアスカの内面を知ってしまうシンジという構図が具体的な表情や行動によって表現されている。明らかに表現の方法に関して新劇場版と異なっている。
 決してモノローグというわけではないが、相手に対して自分のありようを告白する行為というのは異様な感じがする。まるで自分のキャラクターを自ら規定してしまっているかのように見える。あたかも「私はこういう性格付けがされているキャラクターです。」と、設定を視聴者にそのまま伝えているようで、表現性として一段と劣るように思う。とは言え、新劇場版では単にそういった意味合いでの方法としてだけではなく、それを他者に打ち明ける行為を伴うものであったからまだよかった。単に視聴者に対してキャラクターを自己申告するのではなく、作品内において他者との関係性を構築する上で意味のあるものだった。
 しかし、単に視聴者に向けて発せられる自己規定は他の作品でも見受けられる。有名なもので言えば、『サマーウォーズ』(2009)がそれにあたる。主人公の健二が自分のことを「僕は、まだ僕は自分に、自信が持てません。」と宣言してしまうのがそうだった。こうやって「自分は自分に自身を持てないキャラクターです」と自己申告する姿は、エヴァのアスカに重なるものだった。他にも、『君に届け』でも『おまもりひまり』でも『宙のまにまに』でも『シャングリ・ラ』でも、主人公が自分の気持ちをモノローグの中で自己分析する姿が見られる。また、『デュラララ!!』ではナレーションによってキャラクターの位置付けや内面が逐一説明されてしまう場面が多い。
 モノローグとは一人称小説で言うところの「私」と同じものと思う。一人称小説では地の文においても主人公の独白によって物語が進められる。要は、主人公の視点を通して物語世界が描かれるわけで、その視点は自分自身に向けられるのではなく外に向いている。一方、ここで問題にしているアニメにおけるモノローグはそういった視点が自分に向いてしまっている。一人称小説の「私」が自分の視点で外の世界を眺めるものであるのに対して、これらの作品におけるモノローグは自分の視点で自分を眺めるものになっている。キャラクター自身が一人称小説のように外界の見方を語るのではなく、他者の評価などお構いなしで自分勝手に第三者視点を気取って自己規定する行為であるところが異様に感じる。つまり、「私というキャラクターをこういう性格のものと受け止めて欲しい」と主張しているように見えてしまう。
 果たして、こういった傾向がどういった背景から来るのかは、わからない。単に視聴者に向けて「わかりやすさ」を提示するために言葉に出しているのかもしれない。確かに、言葉に出して伝えなければ、伝わることなどないという考え方もある。しかし、映像表現を媒体に作品を作っているわけなのだから、そういったセリフに表現を委ねてしまうのも、自らの表現性を捨てているようにも思える。あるいは、キャラクターが自分のキャラクターを自認する行為に関しては、キャラクターを「演じる」という問題に関わるものとして考えられるかもしれない。自分で自分のキャラクターを他人に説明することで了解をもらい、そうすることによって他者との関係性を保全する。まるで自分の性格を「こういうものだ」と自己暗示にかけることによって、すべて「わかりきった」ような状況になることで安心を得ようとしているかのようでもある。どうも自分で自分のありようを規定してしまう行為には、いわゆる「中二病」と呼ばれる要素があるように思えてならない。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/05/24(月) 00:01:00|
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