土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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社会システムに反抗するアニメーション

 自分を取り巻く既存社会のシステムをぶち壊すようなアニメが増えてきたように思う。その顕著な例が『コードギアス 反逆のルルーシュ』だった。ルルーシュはブリタニアという社会システム故に、妹のナナリーが不幸を被っているとしてシステムの妥当を目指す。彼の目的は皇帝シャルルを殺すことではなく、ブリタニアというシステムを壊すことにあった。その意味では、ルルーシュは反社会的なテロリストと言えるかもしれない。同じように、『東のエデン』では社会の閉塞感を打開するために行動するセレソンが描かれているし、『いちばんうしろの大魔王』では「神」システムの破壊や「物語」からの脱出を試みているし、『Angel Beats!!』では優等生になるとNPC化してしまうという表現を用いて一般的な生き方を否定した。そこらへんに見られる共通点と背景を考えます。




 考えてみれば、『機動戦士ガンダム』でも主人公のアムロ・レイは大人の欺瞞に文句を垂れるような場面は多く描かれていた。アムロの「これだから大人ってやつは…」みたいなセリフは何箇所かあったと思う。他にも、『新世紀エヴァンゲリオン』や『AKIRA』や『パプリカ』では最後に社会の物理的な破壊が行われるし、『機動警察パトレイバー2 The Movie』では東京を指して虚構の街だと言う表現があったし、『ガサラキ』では社会の革命を行おうと奔走する人物が描かれていたし、『攻殻機動隊S.A.C.』シリーズでは社会の悪を描き出していたし、『BLACK LAGOON』ではそんな社会を客観的に捉えながら逃避する主人公があったし、『涼宮ハルヒの憂鬱』でも日常をつまらないとして新たな世界の創造に走るハルヒがいたし、『さよなら絶望先生』は常にいろんなことに対して絶望していたwどれも既存の社会を相手取った内容を持つ点では共通していると思う。とは言っても、それぞれの描き出しているものは違うんだけどね(^_^;)本質的な部分は異なっているから、これらの作品を押しなべて同列に扱ってしまうのも間違ってはいるんだけど…。だた、そもそも、単純な勧善懲悪モノが廃れてこの方、敵役に社会悪や社会の閉塞感を持ってくるものが多くなったことは確かだと思う。
 そんな作品傾向が見られる中、特に社会システムを相手として、その破壊や否定をストレートに扱う作品が増えてきた。自分自身の生き方を管理してくる社会に対して、反抗しつつ自分らしい生き方を主張するような内容を持つ点で共通している部分があると思う。具体的にひとつひとつを検証しながら、その特徴と内容を見てみたい。

『コードギアス 反逆のルルーシュ』

 ど真ん中に直球を投げ込んだような作品だよねw弱肉強食の理論を下敷きにして武力によって世界を支配しようとするブリタニア帝国を相手に、その実力重視の社会で弱者として不公平を被らなければならないナナリーを守ろうとする主人公が描かれていた。そんな社会では目も足も不自由なナナリーは弱者として除け者にされてしまう。主人公のルルーシュはナナリーが安心して暮らせる社会を目指して、ブリタニアの打倒に燃えていた。要は、社会という集団の持つ理論を優先して個人に適応するのか、それとも個人のありようを優先して社会のルールに反映させるのかというバランスの問題だと思う。公共性と個人の自由とのバランスは現実社会においても揺れている。ルルーシュが目指したのは、そんな不条理な要求を押し付けてくる社会のシステムに対する反抗だった。そして、彼らは「優しい世界」という言葉をキーワードに、弱肉強食の理論に頼らない社会への改変を作中では行っていたように思う。
 ここで言うブリタニアの弱肉強食の理論は現実の社会の能力主義なんかを背景にしていると考えて差し支えないと思う。この点では、次の『とある科学の超電磁砲』で登場する「AIMバースト」と同様の背景を共有しているものと言ってもいいんじゃないのかなぁ。
 社会の中に能力による序列が生まれてしまうと、どんな状況においても弱者という存在ができる。しかも、弱者切り捨ての理論まで持ち合わせるとなると、弱者の生きるスペースはなくなっちゃうんだよね(~_~;)能力主義と弱者切り捨てのコンボってのは、えげつないw本来ならば複合的な要素によって序列が複雑化するから、ナンバーワンではなくオンリーワンみたいな発想も可能になるんだろうけど、その序列が一本化されつつあるところに問題意識が芽生えているのかもしれない。
 ま、とにかく、ルルーシュの行った犯行は個人のありようを無視してまで社会のルールを押し付けるシステムに対するものだと思うし、それは現実の社会を随所で風刺しながら描かれたものだったように感じる。

『とある科学の超電磁砲』

 特に前半のAIMバーストを倒すまでの「レベル0」とか「レベルアッパー」っていうモチーフが該当するものになると思う。この世界では能力に応じてレベル0~レベル5まで序列化が行われていて、能力のない人々の非行や非合法な方法による無理な能力開発が社会問題として描かれていた。具体的な例として佐天涙子というレベル0のキャラクターを通して、その無能力であるが故に被る疎外感や非力な自分を責める様子が緻密に描かれていた。これもルルーシュと同様に、能力社会の暗部を模したものだったように感じる。
 特に、この作品ではそういった社会システムを壊すわけではないんだけど、主人公の美坂御琴というレベル5の能力者が問題の根源がどこにあるのか葛藤する場面が描かれていた。レベル0の無能力者たちの怨念みたいなものの集合体を「AIMバースト」として具象化することで、社会システムの抱える問題点を具体的に浮き彫りにした感がある。

『東のエデン』

 これも破壊型ではない。むしろ、問題提起型。とは言え、極めて現実の社会に近い世界観を持ちつつ、無条件に社会に対する閉塞感を問題にしているところがある。まるで現実の社会が閉塞しているということを前提にしているかのようで、そこには制作側の強い問題意識の反映が見て取れる。
 主人公の滝沢朗は閉塞感を打ち破ろうと奔走するものの、さて、どうなったことやらwまだ完結編を見てないんだな…。作中では日本を破壊することによって、スクラップアンドビルドの発想により閉塞感を打開しようとするキャラクターも登場していた。そういった点も合わせて、とにかく現状の社会システムから脱却しようとする強い意識が作中にみなぎっているように思う。

『いちばんうしろの大魔王』

 ギャグアニメですから、テンポ重視で細かいとこ無視してやってますから、まぁ、詳細は原作を読まないとわからないwけれど、主人公が「神」システムを破壊する場面は印象的だったし、他人に用意された「物語」を受け入れることなく、主体的に生きようとする姿が描かれていた。最後にはラピュタみたいな神のメインコンピューターを破壊していた場面もあったしね。しかも、そういった姿勢は作中のギャグ要素とは離れた部分で文脈など関係なく半ば強引に盛り込まれていたところに、作者の感じとっている問題意識が表れているように思う。あの設定は明らかに不自然であるし、確かに作品の雰囲気を作り出すためのガジェットにはなっているものの、なんらギャグ要素とは関係のない飛躍しまくりの設定だった。個人の生き方を管理している神コンピューターの破壊という意味では、先に挙げた作品と同じような問題意識を共有しているものと思う。

『Angel Beats!!』

 駄作なだけに、これらの作品群と同列に並べるのも憚られるが…w作中で登場する「NPC」の発想が該当するものと思う。学校生活の中で従順に行動してしまうと、個人の自由意志が奪われてしまい機械人間のように行動するようになるという設定だった。本来ならば、優等生だろうと従順であろうと、そこには個人の主体的な意志があってのことと解釈されるのが当然のはずだろうと思う。しかし、そこに意志を読み取らずにNPC化すると表現したところに、社会のルールに従順であると個人の尊厳を失うという意識の介在があるように感じられる。

 他にも同様のモチーフがあるんじゃないのかなぁ。。思いつくだけ挙げてみて、こんな感じだった。共通している部分は、個人の生き方に手を出してくる社会システムに反感を持っていることであって、それに対して皮肉ったり反逆してみたりしていたwみんな、不満がたまってるのかなぁ…。
 物語作品が現実の社会を風刺するっていうのは他でも行われてきたことではある。それこそ、上田秋成然り、ハリーポッター然り、洋の東西を問わず枚挙に暇がないと思う。これらの作品が共通して同じような社会状況を題材としていることには、少なからず現実の社会に対する何かしらの思いが鬱積しているっていうことなんだろうか。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/06/21(月) 00:01:00|
  2. アニメ時評
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント

『Angel Beats!!』は、メインテーマから考えれば、いままでの流行とは逆の社会システムに反抗しないアニメーションだと思います。メインキャラが神への復讐を信条としていたにもかかわらず、結局は目的である神の存在が確認できないのだから、いいかげん別の事に時間と労力を使う方が有意義であることに気づくという意味で。
  1. 2010/06/24(木) 23:23:37 |
  2. URL |
  3. モリヤ #DhuRAo1g
  4. [ 編集 ]

モリヤさん、こんにちは。

正直なところ、『Angel Beats!』のテーマを掴みきれていません。というより、テーマがあったのかどうか疑っているところです(^_^;)まだラストを迎えていないので具体的なコメントは控えますが、まずは「NPC化」という設定に共通点を感じて部分的ながら一例として挙げました。つまり、「優等生になる=自由意志を奪われる⇒消滅する」という発想の中に、ルールに従順であることへの反発を感じ取りました。実際に、彼らは消滅を避けるために、授業中に私語をしたり麻雀をしたりと、敢えてルールを破る行動を取っています。そこには、ルールの通りに行動することが自由でいることを制限・束縛するとうい意識の反映があるように思いました。

> いままでの流行とは逆の社会システムに反抗しないアニメーション
> いいかげん別の事に時間と労力を使う方が有意義であることに気づく

自分たちが好きに生きることを押さえ込んでくる(=自分たちの存在を規定してくる)「ルール」への反抗の無意味さを実感し、そんなことよりも、青春や愛といったところに価値を見出したという解釈でいいでしょうか?
確かに青春することで成仏するという設定はありましたが、神の存在に代わるものは確認できたように思います。#12「Knockin' on heaven's door」の中で、エンジェル・プレイヤーのプログラマーがあの世界のルールの一部を決めていたことがわかりました。彼の意志によってユリたちの生き方が支配・管理されていたことからは「ルール」の存在を認めることができると思います。ユリ自身、「人間というものは、たったの十分だって、我慢してくれないものなのよ!」というセリフによって、支配からの脱出を宣言し、エンジェル・プレイヤーの破壊を行った場面がありました。社会システムに「反抗しない」とは言えないように思います。まだまだオチが見えない以上は、『Angel Beats!!』全体のテーマについては何とも言えません。次回の卒業式でどのような結論を導き出すのか、楽しみに待っているところです。
  1. 2010/06/25(金) 02:45:51 |
  2. URL |
  3. 土星蜥蜴 #-
  4. [ 編集 ]

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