土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『四畳半神話大系』全11話の感想。

「しかし、これだけの面々に囲まれた私のキャンパスライフは、はちきれんばかりに充実していたはずである。私は一体何をしていたのか。私は世界を味わう術を知らなかった。」
『四畳半神話大系』#11「四畳半紀の終わり」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 さすが湯浅監督…、っていう感じ。湯浅監督だけではなく、ずらりと居並ぶ各職種の実力派と思しき面々の才能が上手いこと織りなされており、まとまりのある素晴らしい作品に仕上がっていたと思う。アニメ脳を持っている人間からしてみれば、あちこちに他のアニメでも見られるモチーフを読みとることができたのも面白いところだった。主人公の語りばかりが先行するような内容でアニメをやるということには不安もあったけど、見事にアニメ的なアニメをやっていたと思う。そうは言っても、やはりアニメでやる必要があったのかと言えば疑問がないではない。そりゃぁ、これだけのスタッフを配置すれば、こんだけの作品になることは請け合いなんだろう。ただ、アニメというメディアでこういった内容をやることの必然性はどこにあるのだろうか。湯浅監督の「らしさ」が十全に発揮される作品とは言い難い側面のあることは否めず、湯浅監督の持ち腐れのように思えてならない。まるで名筆と呼ばれる書家に看板屋の字を書かせたようで、それはそれで味もあって真似のできない巧みさに満ち満ちた作品として鑑賞することはできるけれど、もっと創意あふれる独創的な他の字を見たかったというのが本音である。一日にして千里を駆けるという赤兎馬を動物園で飼い馴らしたかの如き作品だった。本企画の立案者はどこか!

■日常へと回帰する物語

 主人公が非日常へと旅立って、アッチの世界で困難を乗り越えて成長を遂げ、最後には日常へと帰ってくるパターンを持つ物語は多い。この作品も右に倣えだった。ただし、アッチの世界が日常空間に巧妙に仕組まれているために、なかなか非日常の世界へと旅立っていたことに気付くことは難しかった。類型的な物語としての系譜には連なりそうなものの、その方法は従来のものとは少しく異なるものだったように思う。

「しかし、これだけの面々に囲まれた私のキャンパスライフは、はちきれんばかりに充実していたはずである。私は一体何をしていたのか。私は世界を味わう術を知らなかった。」

 それまでの人生では日常を否定してばかりで、あれも違う、これも違うと、いつも理想のキャンパスライフを夢見るばかりだった。しかし、さんざんに四畳半での経験を繰り返したことによって、次第に日常生活の楽しさや自分が恵まれた環境にあることを知る。セリフにもある「私は世界を味わう術を知らなかった。」とは、そういった日常の楽しさに気付いたことの謂いだったのだろうと思う。もとより世界は味わい深く眼前に立ちはだかっていた一方で、なぜ不味く感じたのかと言えば、その味わい方を知らないだけだった。

「夜中にふと思い立ち、猫ラーメンを食いに行ける世界、これを、極楽と言う。」

「八面六臂の大活躍で己のキャンパスライフを謳歌しながら、すべての私にちょっかいを出し続ける…。こんな男に出会っていれば、私のキャンパスライフは楽しいものになったであろう。小津は、たった一人の私の親友らしかった。」

「もしここから出られたら、カフェ・コレクションのタラコスパゲッティーを食い、猫ラーメンをすする。銭湯の広い湯船にざぶんと浸かって、河原町で映画を見る。峨眉書房の親父とやりあい、大学で講義を聴くのもいい。樋口師匠に弟子入りして猥談に耽り、羽貫さんの地獄のエンドレスナイトを味わい、城ヶ崎氏の意味不明な情熱映画に付き合い、秘密組織にも身を置いてみよう。」

 どのセリフも他愛もない日常の風景でしかない。猫ラーメンは毎回のように食べていたし、小津のことは煙たがっていたくらいだし、大学で講義を聴くことほど慣れたものはないだろうと思う。しかし、その日常を肯定できたことに「私」の成長があったように感じた。それまでは、どれも理想のキャンパスライフではないと否定してばかりのものだった。四畳半という非日常の世界から日常を客観視することによって、日常の楽しさを再発見することができたのだろうと思う。米が食いたいという何でもないことに幸せを感じる私は日常でも生きていける。

「何故そんないじける一方の二年間を過ごしてしまったのか…。」
「それは、小津が!」
「貴君が小津の薄汚れた魂に影響されたことは認めよう。しかし、それだけではないだろう。」

 初回において樋口師匠に質問を投げかけられていた。その段階では小津に日常のつまらなさの責任をなすりつけ、自分のことは棚上げにしたままだった。実は、初回にして既に最終回で導かれた結論は出ていたんだろうと思う。樋口師匠が言うように「いじける一方の二年間」の原因は小津だけではなく、私本人の問題でもあった。それを認めなかったからこそ、私はいつまでも理想のキャンパスライフに憧れて足元を見ることなく、満足のいくような人生を手に入れることができなかった。

「なぜ私にそんなに興味を持つんです!」
「俺なりの愛だ。」

 しかし、最後には私の顔が小津になった。私の言った「俺なりの愛だ。」というのは小津の口癖でもあり、こういったセリフを私に言わせることによって、私が主体的に世の中と向き合う姿勢が打ち出されたように思う。樋口師匠の言っていた「それだけではない」という事実を受け入れ、自分の中にある小津的なるものを認め、現状のキャンパスライフを肯定する姿が鮮明に描き出された場面だったように思う。

■作中にあしらわれたモチーフ

 そもそも、こういった日常へと回帰していく物語は湯浅監督自身の『マインドゲーム』で十分に取り扱われていた。何を今さらっていう感じがするw別に焼きなおす必要ないんじゃない?先行の作品を見てしまえば事は足りてしまうように思う。わざわざこの作品を見る必要性がないというか、それはこの作品のオリジナリティーに関わる問題として大きな影を落とすことになる。
 常に感じていたことは、この作品の扱っている個々のモチーフは既出のものばかりだということだった。ただし、そういった要素を見事にひとつの作品の中でまとめあげた妙は確かにある。その点に作品を評価すべき点があるようには思うけれど、別にこの作品でなければならないという理由にはならない。
 具体的に個々のモチーフを挙げれば、かなりの数になると思う。
 特に、最終回で私がコスチュームを替えつつ小津のもとへと走り抜ける場面は今敏監督の『千年女優』に同様の趣向があった。これは確実にオマージュだろうと言えるくらい、似たような場面がある。千年女優では作品のラストで時系列からまとめあげる方法になっていたけれど、この作品では空間的な位相をまとめあげる形で小津へのランニングが描かれていた。単に場面が似ているというだけでなく、物語がラストに向けて収束していくような構図も同じものであり、時空間を超えた様々な位相の自分が同じ意志を共有して目的に向かって疾走する姿はあまりにも似すぎている。すべての話が総括され収斂していくあの爽快感はたまらない。
 また、初回から占いの老婆によって指摘されていたように、無限回廊を脱出する方法として「もちぐま」を利用するモチーフが取られていた。これは、たとえば押井守監督の『イノセンス』でも無限回廊を抜け出すにはイレギュラーな要素を発見するというモチーフが取られていたし、衛藤ヒロユキ『魔法陣グルグル』でも同様のモチーフが確認される。今回の「もちぐま」や「明石さんに猫ラーメンを食べようと誘う」という堂々巡り脱出の方法に関しても、これらと同様のモチーフであったと言っても差し支えはないように思う。

「それぞれの部屋は同じようで少しずつ様子が違い、少しずつ違う私が生息しているようであった。」

 この発想は量子論的なものに支えられたものだと思う。考えられる可能性の分だけ人生の分岐が生まれており、それぞれにパラレルな関係で時系列が進んでいるという考え方なんだろうか。量子論を扱ったアニメと言えば『ノエイン~もうひとりの君へ~』や『ゼーガペイン』なんかが代表的なものになるんだろうけど、近年のSF要素を取り入れたアニメには必須となりつつあるモチーフになってきている。ご多聞に漏れずといった感じ。
 非日常から日常へと回帰している物語の類型にしても、『涼宮ハルヒの憂鬱』で扱われていた内容は記憶に新しい。先の『マインドゲーム』と合わせて、日常を客観視してその価値を再確認するという構図は伝統的とも言える物語形式だというように思う。思えば、この間の『Angel Beats!』も同じ構造を持っていた。
 ただ一点、よくわからないのは蛾だった。従来の作品では無限回廊や幻想的な世界へと迷い込んでいるモチーフには蝶が用いられる。たとえば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』でも夢の世界へと迷い込んだ際には蝶が飛んでおり、胡蝶の夢の故事を連想させるような演出がなされている。ある意味、蝶が飛んでいるということは、アニメにおいてもその映像が夢なんだというメッセージを含む記号にもなっていると思う。それお、なぜ蛾にしたのか。ただ明石さんが嫌いだという縁があってのことなのかもしれないが、不可解でしかない。グレーのボクサーパンツがぴったりという逆シンデレラストーリと同様に、ここでは慣例を外したということなんだろうか。
 どれにしても、巧いこと個々のモチーフを作中でつなぎ合わせた感がある。決して継ぎ接ぎの見えてしまう下手なオマージュになっていないところが、さすがと言うべきところなんだろうと思う。ただし、新たな何かを提示したのかと言えば、そういった要素はあまり見られなかった。作品作りの巧みさは感じられるけれど、何かフロンティアを行く部分があるかと言えば、特筆すべきものはなかったように感じた。

■メモ

「成就した恋ほど語るに値しないものはない。」

 至言だと思うwとにかく、「私」のナレーションにはユーモアがあふれていたし、そこに作品の面白さと力強さがあったのかな。オリジナリティーや特徴と言えば、こういった点になるのか。軽妙な語り口は聞いていて飽きなかった。
 そして、とにかく羽貫さんがセクシーでたまらなかった。こんなにセクシーなアニメキャラクターを見たことがないw決して露出や容姿によって特徴付けているわけではなく、その仕草や表情によってセクシーさを醸し出していた表現はスゴかった。やっぱりスゴいなと思った。
 ただ、なぜ実写を交えたのかは納得がいかなかった。湯浅監督の持ち味を出すのであれば、全編を通して絵でいったほうが良かったんじゃないのかなぁ。。実写を取り入れたことによって、独特で観念的な物語空間が一気に現実へと引き戻されてしまったように感じた。中途半端に実写が交じっただけに、なんだか白けた部分もある。



 またもやノイタミナの悪弊が出た感じ。なんていうか、野球言えばイメージは巨人のチーム編成に近いのかもしれない。オールスター的な有名選手ばかりがそろっていて試合も面白いんだけど、勝ったところで当たり前過ぎて白けてしまう部分もある。まだノイタミナは勝てている分だけ救いはあるのか…w他のアニメーション制作の現場で育てられてきたものを流用しているだけで、ノイタミナ枠のアニメが将来のアニメ制作に寄与するものがあるのかと言えば薄い気もする。企画ばかりが先行してしまっているように見える。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/07/06(火) 02:16:58|
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