土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

『スクライド』全26話の感想。

「あぁ、そうだ。こうと決めたら迷わねぇ!欲しいモンは奪う!!俺と関わりあったやつには悪いが、腹くくってもらう。ワガママかい?ワガママだなぁ。そうだよなぁ、さぁ、進むぜ!!」
『スクライド』#19「常夏3姉妹」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 なんとなく『無限のリヴァイアス』をベースにして、熱血バカを加えて、異能力者モノに仕立て上げたような感じの作品だった。秩序を押し付けてくる社会に反抗しつつ、自らの信念を貫いて生きようとする主人公の姿が描かれる点は、谷口悟朗監督の作品に共通する主題のように思う。他の『無限のリヴァイアス』や『ΠΛΑΝΗΤΕΣ』や『GUN×SWORD-ガンソード-』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』に比べて存在感が薄い中、やはり本領を発揮したと言うよりは余技的な作品だと感じた。なんていうか、アニメ監督をやる上は、一度くらい熱血モノを作りたいなぁ、みたいなw正直に言えば、あの最終回は必要なかったと思う…。異能力者モノや熱血モノは他にもたくさん作られているし、社会に反抗する主人公はギアスで徹底して描かれるし、無秩序な社会の中で秩序を作り上げていく様子はリヴァイアスで特徴的に描かれるし、スクライドに独特の要素と言えば思い当たらない。半ば剥き出しで荒削りな内容なだけに理解は易いけど、別に敢えて見る必要があるわけでもなかったかな。。

■社会と個人の対話

「俺はある仕事で、市街に潜り込んだことがある。確かに、どいつもこいつも楽しそうに歩いていたよ。同じような顔で笑って、同じ方向に歩いて、同じような服を着て、っふん、胡散臭ぇぐれぇになぁ。」
「なんて一面的な。人は平等であってこそ、初めて…。」
「それよ!その平等ってやつ、そいつが気に入らねぇ。俺たちはみんな違ってるのが当たり前だろ?」
「そんなことはありません。だったら、不幸な人はずっと不幸で居続けなければならない。」
「不幸でなくなればいい。」
「人は誰でも、平等に幸せになれる権利があります。その手助けをしてはい…。」
「っふっはっはっはっは。」
「なんで笑うんですか!?」
「ちゃんちゃらおかしいぜ。俺らを捕まえようとしてるやつが、そんなことを言うとはなぁ。他人が俺のことを幸せとか不幸とか言うんじゃねぇよ。それが見下してるって言うんだ。」
#07「橘あすか」より

 一貫して描かれた第一のテーマは、文明の発達した社会の抱える矛盾になるのかな。社会の実現しようとする平等とか公共性とか秩序っていうのは理想的なものではあるけれども、それを実現するにあたって個人の尊厳が損なわれる部分も生じてしまう。社会の秩序は弱者を救済するシステムを内包するんだろうけど、それは同時に勝手な価値観で弱者を弱者と決めつけるシステムを持つことになってしまう。なぜ弱者と言えるのか、なぜ不幸と言えるのか、そういった価値観は本来的には本人が決めるべきことであるのに、社会秩序は弱者を弱者と勝手に認定して救済を行おうとする。そこには一方的で一元的な価値観の押しつけが内在しているし、個人の個人たり得る主張は存在しない。主人公のカズマに仮託された主張っていうのは、そんな秩序はしゃらくせぇってことだよねw

「僕がこの動物を制御しましょう。」
「やめろ。」
「えっ?倒そうとしていたのは、あなたでしょ!?」
「事情が変わった。こいつのとこに勝手に入ったのは俺たちだ。こいつが抵抗するのは当たり前だろ?俺がこいつでもそうしている。」
「あなたがホーリーに逆らったようにですか?」
「お前はどうなんだよ。」
「僕はホーリーとして…。違う…、守るべきもの、維持したいことがあるから戦っています!」
「だったら、こいつと同じじゃねぇか。」
#07「橘あすか」より

 社会秩序の強烈な印象をホーリーに持たせながら、主人公のカズマには個人としての主張を与えている。カズマは自分の力で自分の立ち位置を獲得するし、自分で守ろうと思ったものは自分の力で守る。だから、カズマは縄張り意識から襲ってきた動物を許した。平等な社会秩序を意識するならば、こんな縄張り意識は無意味になるんだろうけどね…。ある意味、社会と個人の対比を描いた象徴的な場面だったと思う。

「俺はホーリーになって文化的な生活をしてから、気付いたことがあります。確かに、文化も社会的秩序も素晴らしい。しかし、人間は本来争う生き物なのです。平穏を維持しようとすれば、歪みが生じる。」
#11「アルターズ」より

「あぁ、お前は強い!そりゃぁ、もう、なかなかのもんだ。けどなぁ、腹が減ったらどうする?メシは、服は、寝床は…、すべて力で奪うのか!?そうやって、お前が手に入れたモンのおこぼれに群がるバカを従えて、お山の大将気取るのか!?それとも、全部独り占めしようとして、てめぇを見せつけるか!?っはっはっは、消えてなくなるぞ、何もかも。」
#15「はぐれ者」より

 だけど、そんなカズマに象徴される個人による個人的な生き方に対してクーガーが疑問をぶつける。社会秩序の素晴らしさを実感しながら、そのシステムの背景に押さえつけられる個人が存在することはクーガーも認めている。だからこそ、「人間は本来争う生き物」なんだと言っているんだろうと思う。争う性質を持ちながら、社会秩序のために抑制して生きている姿を感じてのことかな。。
 そんな中でも、やはり個人による個人的な生き方の抱える問題も同時に指摘している。力があれば自分一人の力だけで立ち位置を確保することもできるだろうけど、もしも力のない人だったら、それは不可能となる。やっぱり人間は協力して生きていかなければならない側面のあることをクーガーが指摘しているように感じる。これは橘の指摘する「不幸な人はずっと不幸」なままであることの問題とも共通する考え方だと思う。
 主人公のカズマを通して清々しいまでの個人的な生き方が提示される一方、カズマのような力を持たない人間の抱える問題意識も描かれていると思う。この両者の要素が物語の中でたびたびぶつかりあっている。

「まったくよぉ、この俺が迷うなんてなぁ。笑っちまうよなぁ、君島ぁ。俺とつるんでるやつは、痛い目を見るのさ。お前のように、あいつのように…。だったらよう、何も背負わないほうがいい。あいつの傍にいないほうが、あいつのためになる…。っふっふっふ、そんなこと考えてたんだぜ?この俺が!けどよぉ、そいつは逃げだ。ちっとも前に進んじゃいねぇ。あぁ、そうだ。こうと決めたら迷わねぇ!欲しいモンは奪う!!俺と関わりあったやつには悪いが、腹くくってもらう。ワガママかい?ワガママだなぁ。そうだよなぁ、さぁ、進むぜ!!」
#19「常夏3姉妹」より

 でも、やっぱり個人の生き方を押し通すんだよねw社会秩序と個人の対比において問題提起がなされているけれども、あんまり答えを用意しないまま終わった感じもする。社会秩序を守るホーリー側の人間だった劉鳳も#16「来夏月爽」で社会秩序に踏みにじられる個人の尊厳を感じていたけど、描かれるのは悪役としての社会秩序だけであって、クーガーや橘の指摘する弱者をどうするのかといった問題には解決をもたらさなかったように思う。
 思えば、この社会秩序に踏みにじられる個人っていうのは、後に『コードギアス 反逆のルルーシュ』の中で主要なモチーフとして扱われることになる。主人公のルルーシュやナナリーはブリタニアという弱肉強食の論理を国是とする社会秩序の犠牲となって、不安な日々を送っていた。弱肉強食の論理っていうのは物語を解り易くするための方法なんだろうけど、社会システムが個人の生き方を踏みにじるっていう構図は一致すると思う。社会システムは個人がそれぞれ本来的な生き方ができるように平等を推し進めようとするけれど、その背後には平均化されることによって踏みにじられる個人の尊厳があることを指摘してのことだと感じる。ただし、その解決策についてはスクライドもギアスも答えを持たなかったんじゃないのかなぁ。。描かれるのは反抗する姿や社会と個人の対比だけであって、何か解決する具体的な方策が示されたわけではなかった。っていうか、示されていたらスゴいことになるけどね…wなんだか社会に反抗するっていう意味では、谷口悟朗さんが助監督をやった『ガサラキ』にも共通する要素を見て取ることができると思う。あそこでも革命家としての西田が存在していた。

■異能力者アニメとしての系譜

 異能力者が一般的な社会にどうやって溶け込んで生きるのかっていうモチーフは他の作品でも共有されている。それら作品の中では魔法が使えたり、超能力が使えたり、特異な能力を持っていたり、かなり象徴的に異能力であることが描かれる。けれど、実際の社会においても、ごく「一般的」で「平均的」な個人など存在しないことは自明の理だと思う。実は誰もが特殊であって、それが社会秩序の平等の原理のもとに一般的だったり平均的だったりする姿を装っているとも言える。ある意味、こういった異能力者のアニメが出てくるのは、社会と個人の対比を肌で感じていることの表象なのかもしれない。
 たとえば、この作品に先行するものとしては『R.O.D』が挙げられるし、他にも『Witch Hunter ROBIN』や『BLOOD+』や『DERKER THAN BLACK 黒の契約者』がある。中でも『Witch Hunter ROBIN』は魔女狩りをモチーフにしていて、特殊で個人的な存在が社会にどう溶け込むのかといった問題を先鋭的に表現していたと思う。『BLOOD+』では吸血鬼の女王とノーマルな人間との恋を描きつつ、吸血鬼との対比から人間らしさが描かれていた。普通の人間でありたいと願う吸血鬼の女王の姿が印象に残っている。往々にして、これらの作品の主人公は普通でありたいという姿勢を取ることが多い。自分が特殊であることを隠し、市井に紛れて生きることを欲する。それは特殊であることが社会秩序の中では差別の対象になる背景を反映してのことだろうけれど、しかし、スクライドの主人公であるカズマは隠すことをしなかった。そこにスクライドのスクライドらしさがあるんだろうか。

■時代は公共性>個性から公共性<個性へ

「これが…、劉鳳!家柄、容姿、能力、あの男は生まれながらにして全てを持っていた。なのに…、なのに、私には何もない。妬ましいなどという言葉では済まされない。だから、私は喜んで精製された。そして、手に入れた。権力と能力を…。だがしかし、まだ何かが足りない。私の中にある餓えは、乾きは、満たされていません!」
#21「ホーリーアイ」より

 典型的な悪役として描かれた無常矜持はカズマと対照的な存在でもあった。カズマや劉鳳は生まれながらにして特殊な能力を持っていたけれど、矜持は何も持って生まれなかった。これも橘の指摘していた「不幸な人はずっと不幸」のような問題意識と共通する点だろうと思う。無常矜持は能力を持たない人の抱える虚無感を象徴するキャラクターだった。ただ、そんなキャラクターを単なる悪役に押し留めてしまったのは残念だと思う。どうやって能力を持たないことの不公平感を解消するのか不明なままだし、矜持に能力を持たせてしまったことで矜持の本質的な役割は矛盾を抱えることになる。矜持は「何かが足りない」と言っているけれど、十分に足りているw何か愛とか友情といったような感情が不足していると言うならわかるけど、そういった描写もなかった。彼が能力面において不足を感じると言うならば、それは高望みにもほどがある。
 こういった能力を持たない者の抱える不安というものは『とある科学の超電磁砲』で上手いこと取り上げられた。決して『とある魔術の禁書目録』ではないwレールガンは原作を大きく上回るスピンオフ作品になった。この作品も異能力者を描いたものだったけれど、先に掲げたものとは大きく違って異能力であることを誇るようなアニメだった。それだけでも画期的と言えるのに、能力を持たない者の不遇を「AIMバースト」という現象によって具現化したところが冴えわたっている。スクライドが描ききれなかった無常矜持の本来的な虚無感は、レールガンのAIMバーストによって昇華されたと見ても間違いはないように思う。
 レールガンのような作品が出てきたことを思うと、なんだか世の中の移り変わりを感じてしまうwかつては特殊であることを「いけない」と発想するようなアニメが多かったけれど、レールガンでは特殊であることが求められていた。スクライドには社会秩序を押し付ける側に対する反発が描かれる中で、損なわれる個性への悲哀が浮かび上がっていたと思う。一方のレールガンでは個性的なキャラクターとともに特殊な能力が優遇される社会が描かれる中で、無個性なる者たちの行き場のない戸惑いが取り上げられていた。この佐天涙子に代表される「無個性なる者たち=レベル0」はスクライドで言うところの「不幸な人」と同じ位置付けの存在だと思う。つまり、スクライドでは公共性>個性への反発があり、レールガンでは公共性<個性への反発があったとも言い換えられる。なんだか学校教育の方針の揺れ動きと同じような感じだねwそんな社会状況を反映させるのも、日本のテレビアニメに独特の気質だろうと思う。っていうか、実は、それこそ日本のアニメの本質だったりするのかなぁ。。

■アニメにおける作家性

「我々には優秀で有能で有益な脚本家がいるじゃないか。クライアントの要求に応え、時間通りに書き上げる男を…。職人風の気質を持ちつつ、作家性を失うことのない、理想的で不世出の脚本家が…。」
#08「最悪の脚本(マッド・スクリプト)」より

 ちょっとだけメタな要素を感じとるセリフだよねw確かに、こんな脚本家がいたら理想的なのかもしれない。けれど、現実的にクライアントの要求に応えることと作家性を失わないことを両立させるのは難しいよね…。
 この作品は、どちらかと言えば作家性に特化したようなものだった。まだ1990年代後半のアニメの隆盛の残滓たる姿を感じさせる企画だと思うし、言ってしまえば、アニメらしいアニメだったと思う。今のアニメと言えばオタクに愛でられたいアニメだったり、映画らしいアニメだったり、あんまりアニメらしいアニメを見かけなくなった。2000年代に入ってもこういう作品があったのかと思うと、なんだか泣けてくるwと言っても、2001年だから1990年代に近いんだけどね…。古き良き時代とは言うけれど、どうしても懐古的になってしまうのはどうしようもない。



 あの…、谷口監督ってロリコンなの?ちょっと気付いてしまった…。この『スクライド』の由詑かなみと言い、『GUN×SWORD-ガンソード-』のウェンディ・ギャレットと言い、『コードギアス 反逆のルルーシュ』のナナリー・ヴィ・ブリタニアと言い、どれも妹キャラかつヒロインだった。ああいうのが理想像なのかなぁ。。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/07/16(金) 22:58:02|
  2. スクライド
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

コメント

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
  1. 2013/11/18(月) 00:02:52 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

<%template_post\comment>


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://lizardofsuturn.blog40.fc2.com/tb.php/347-08827ff0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。