土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『借りぐらしのアリエッティ』の感想。

「僕は、あの年の夏、母の育った古い屋敷で、一週間だけ過ごした。そこで僕は、母の言っていた小人の少女に出会った。」
『借りぐらしのアリエッティ』予告篇より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 映画館で見てきちゃいました。ストレートな感想は後回しにして、とにかくアリエッティが凛としていて可愛かった。住んでいる家も夢の詰まったようなワクワクする小道具であふれていたし、相変わらず背景の描きこみはジブリって感じだった。以上、良かったと思う点はこれまで。以下、酷評のみ続きますので、ご覧になる方はご了承のうえでどうぞwゲドほどの悪評とはならないけれども、昼行燈の如き存在感の薄い作品だったと思う。これじゃぁ、悪評も好評も立たない。ポカーンって感じ。それで、何?って感じ。何もなかった。
 端的に言えば、内容は無味乾燥で、絵に関してもポニョに劣る感じだった。何をやりたいという意欲が感じられず、作品が冗長になってしまったことは否めない。すべてにおいて中途半端というか、成り切れていない作品だったと思う。絵柄、シナリオ、演出、SE、BGM、キャラクター、世界観、何を取っても一歩及ばない。オチに関して言えば、あまりに強引過ぎて驚いたくらいだったw本編はいつ始まるの?って思うくらい内容は淡白だったし、そのオチだって何も解決をもたらさない形だけのものになってしまっていた。ジブリの歴史を次代に向けて展開した作品というよりも、単なる「場つなぎ」的な作品になってしまっているようにも感じる。かと言って、過去の作品をオマージュしたり再定義したりするようなものでもなかった。何もない。まさしく昼行燈のような感じ。
 この作品を特徴付ける内容はアリエッティでなく翔というキャラクターにあった。彼は無理やりアリエッティに関係を持とうと、暴力的な行為に及ぶ。まるで一方的な恋愛感情の爆発でしかなかったし、その方法が強引で破壊的な思いやりのないものだっただけに理想的な恋愛像とは程遠くなってしまう。しかも、最後にはアリエッティが動機も不明なまま翔の好意を受け取る始末だから意味がわからない。どうにも具合の悪い作品という印象だった。

繰り返しますが、以下、本編に関する直接的なネタバレが多く含まれますので、ご了承の上でお進みください。



■何にしても中途半端な物語世界

 最も気になったのは中途半端さだった。小人の世界を描いているにも関わらず、途中から小人と人間の目線がまぜこぜになってきてしまい、最終的にはアリエッティでさえも小人ではなく人間と同等に感じられるように描かれていた。こんなことなら、別に小人であることの必要性がなくなってしまう。
 最初にアリエッティが家屋の中へ借りに出かけたときは人間生活の出す音を大きく演出しており、翔の声も少し野太い声に編集していたように思う。つまり、その時点では小人目線でのSEを用いており、小人と人間の大きさの違いが鮮明に打ち出されていた。しかし、その演出は最後まで貫かれない。小人だけが写っている場面はSEも普通の大きさに戻していいだろうけど、翔とアリエッティが一緒にいる場面でも普通の音の大きさになってしまっていたことには違和感を思えた。そりゃぁ、全編を通して翔が野太いスローな声でしゃべっているのも面倒だけど、なんだか普通の音量に戻してしまうのも変な感じがする。
 また、カメラの位置に関しても小人なのか人間なのかわからなくなる感じがした。基本的には小人サイズな迫り方でアリエッティを映すんだけど、ほとんどと言っていいほど人間サイズでの引き画がなかった。したがって、あまりアリエッティの小ささが強調されるようなことはなかったと思う。これも初めて翔に出会った場面ではティッシュ箱との大きさの対比で小ささが印象付けられるようなところはあったけど、それ以降はアリエッティ自身が人間サイズではないのかと思えるほど、引きの画が少なくなっていた。これも小人と人間のサイズを混同する原因のひとつになっていると思う。
 序盤では小人と人間の違いを打ち出すためにSEを工夫して小物も大きく描き、次第に物語を展開させることに重点を置くために小人と人間の違いを前面に出すようなことはしなくなったんだろうと思う。だんだんと両者の差を詰めて、観客の意識を導入させていった感じなのかもしれない。でも、結局は内容的にも翔とアリエッティの如何にも人間的な恋愛っぽいものを描いてしまい、アリエッティが小人であることの必要性や世界観の意味が薄らいでいったことも確かなことだろうと思う。
 つまるところ、アリエッティ自身があまり小人らしくなかったw人間との背丈の対比を見れば小人だろうとは思うけれども、言ってしまえば「小人文化」を感じさせるような、小人らしい目線から出るはずであろう感情なりモノの見方がほとんどなかった。あれじゃぁ、人間と変わりない感受性・文化を持つ存在でしかなくなってしまい、彼女が小人であることの証明は身長しかなくなってしまう。ローリエの葉が一枚あるだけで一年も保つという設定や、母親のホミリーが「いつか本当の海を見るのが私の夢」というのは小人らしい感じがする。だけど、せいぜいそれくらいだったんじゃないのかなぁ。。小人だったら翔の毛穴が見えて驚くだとか、猫の毛に潜むノミの多さに気付くとか、そういうリアルな部分での小人らしさはなかったように思う。
 では、何を描こうとしていたのかと言えば、何もないw小人の世界を描くんだろうと思って、実は違っていたような感じがする中、他にテーマがあるのかと言っても思いつかない。確かに翔とアリエッティの恋愛っぽいものは描かれるけれども、それもまた中途半端な感じの残るものだった。先の『千と千尋の神隠し』で見せた千尋とハクの幼いながらも純粋な恋愛でもなし、『ハウルの動く城』で見られた年齢や見た目を超えたハウルとソフィーの恋愛でもなし、『崖の上のポニョ』の無垢で純粋で幼い恋愛でもなし、『耳をすませば』のような青春めいた恋愛模様を描くわけでもない、アリエッティと翔の二人が本当に恋愛に陥っているのか不鮮明なままラストを迎えていたように思う。翔がアリエッティに好意を寄せていたのだって、結局は単に心臓の病気で弱っていた翔の精神性に由来するものであって、アリエッティである必要性はなかった。人と交わることの少ない翔は誰かと関わりを持ちたかっただけであり、たまたまアリエッティが目の前にいただけのようにも感じてしまう。アリエッティにしても翔に助けてもらった経緯はあるにしても、はっきりと翔のことを好きでいると思わせるような表現はなかった。せいぜい最後に洗濯バサミを渡したくらいだったと思う。それも、取ってつけたようにw次第にアリエッティを人間と同じように感じさせるような演出を行っていたのも、翔とアリエッティの恋愛を成り立たせようとしたがためなんだろうか。それにしても、恋愛への動機付けが表現されておらず、ボーイミーツガールとしても中途半端に終わった感がある。さらに、スピラーという三角関係に発展しそうなキャラクターを出しながらも、ほとんど生かすことなく終えてしまっていた。病弱な翔と力強いスピラーという対比を持ちながらも、スピラーは影が薄かった。
 他にも中途半端なところは多い。和洋折衷な感じの作風で、アリエッティは西洋風で翔は純和風だった。家屋もどこか洋風な雰囲気を持っており、それを囲む森は日本的な感じのするものだった。そして、BGMも洋風だった。別にいいんだけど、物語の舞台がどこにあるのか不安定な感じになってしまう。そんな取り合わせにリアリティーを感じることは難しい。これが非日常を舞台としたファンタジーであるならば納得もできるんだろうけど、基本的には日常の世界で起こっていることとして描かれていたように思う。
 宮崎作品では日常の世界から非日常へと移行する、その導入の場面が必ずと言っていいほど用意されていた。たとえば、『崖の上のポニョ』であれば嵐の中で道路を駆けあがるうちに非日常へと迷い込んだような感覚をもたらすことに成功しているし、『千と千尋の神隠し』ではトンネルや河といったガジェットが彼我の分かれ目を象徴的に表現していたし、『となりのトトロ』でさえも森のトンネルをくぐったり橋を渡ったりと不思議空間への導入路が用意されていた。そのような中、アリエッティには非日常へと導入するような場面が用意されていなかった。そのまま日常と地続きな感じになってしまい、なのに描かれることは非日常的な和洋折衷のありえない構図とあっては、なかなか理解も苦しくなる。もっと非日常性を打ち出すような不思議さを持たせてもよかったように思う。
 小人なのか人間なのか中途半端、恋愛に関しても動機付けが不十分で中途半端、和洋折衷はいいんだけど日常性と共生できずに中途半端、かと言ってファンタジーでもない。場面ごとのモチーフはいいんだろうけど、それをつなぎ合わせるような筋が見当たらなかった。

■ラノベ化するジブリの後継作品

 ラノベ原作のアニメでよく見られる現象として、キャラクターやシナリオの記号化が挙げられる。キャラクターで言えば生い立ちや人物背景といったものが省略され、ツンデレや巨乳やメガネっ娘といった記号的な属性の配合によって登場人物が構成されているような感じ。シナリオで言えば、シチュエーションが先行してしまうばかりに、そこに至る経緯や動機付けが不十分となり、文脈の欠如した物語になるような感じ。どちらも安易な物語世界しかもたらすことがなく、昨今のアニメが抱える病気のようなものでもあると思う。
 今回のアリエッティも同様の傾向が顕著に見られた。え、ジブリも!?みたいな驚きの感じが強い。以下、具体的な例とともに検証してみる。

「もう、行かなきゃ。手術はいつなの?」
「明後日、頑張るよ。君のおかげで生きる勇気がわいてきた。」

 衝撃のラストだったwこれで終わり?みたいな。翔がアリエッティと関わったことによって、どんな勇気をもらったというんだい?それを裏付けて保証するような具体的なエピソードが作中には見られなかったと思う。確かに翔は自分のことを死を待つ身として投げやりな態度を持つ側面もあったのかもしれない。けれど、いくらアリエッティがバイタリティーあふれる行動を見せているにしても、そこから「生きる勇気」を得るには飛躍がありすぎると思う。言いたいことはわかるし、こういうオチに持っていきたいという気持ちもわかる。っていうか、こういうオチやシチュエーションありきで考えているように見えてしまい、なかなか安易なシナリオだなぁと思うのが正直なところだった。歯の浮くようなセリフってこういうことを言うんだろうか。臭いw
 しかも、最後にはアリエッティが自分の髪留めにしていた洗濯バサミを翔に渡している。あれ?サイズがおかしいんじゃない!?と、そこで気付く。アリエッティの身長は翔の着ていたシャツの襟の高さくらいだったから、おそらくは10㎝より少し高い程度だろうと推測される。その頭部の髪留めなんだろうから、八頭身として頭の大きさがせいぜい2㎝くらい。その髪留めだから、どんなに大きくても2㎝を上回ることはないでしょ。ちっさ!!wなんだか縮尺がぐちゃぐちゃな感じだよ。うちの洗濯バサミだって大きさは5㎝は軽く超えている。まさか、あの洗濯バサミは小人が小人用に自分で作ったものだって言うんだろうか。ならば、なぜ髪留めに使うの?謎だ…w

「守ってくれて、うれしかった。」
「アリエッティ…。」
「いつまでも、元気でね。さようなら。」
「アリエッティ、君は僕の、心臓の一部だ。忘れないよ、ずっと…。」

 え、「心臓の一部だ」って、どんな表現だよ!!w総ツッコミにあいながら、エンドクレジット…。ジブリはセリフで表現することを抑制して、絵によって表現する集団だと思っていた。それが『ゲド戦記』によって崩されて、今回のアリエッティも同様の性質を引き継いだことになる。まったく「心臓の一部」とは物語の文脈から言って飛躍も甚だしいし、何より意味がわからないw大爆笑のエンディングだった。
 調べてみれば、脚本に丹羽圭子さんという人が関わっている。この人は『ゲド戦記』においても脚本を担当していた。この人に由来するラノベ的弊害の表れなんだろうか。ゲドではファンタジックな物語にも関わらず、人の死や生について言葉で説明してしまうという、最も初歩的とも言える致命的なミスを犯していた。あれじゃぁ、説明文ではないか…。映像の連続による文法から意味合いを表現するでもなく、セリフによって語られる意味合いというのは作品を白けさせてしまっていた。今回のアリエッティはそれほど弊害が表に出なかったとは言え、最期の翔の二つのセリフに関しては弊害がありありと表れていたように思う。あまりに形式的なセリフ過ぎて、物語の中の具体的なエピソードや描写との関連性が薄い。強引で安易で、どうしようもない。

「私たち、引っ越すの。人間に見られたから。借りぐらしは人間に見つかっちゃいけないの。」
「借りぐらし?」
「人間の家から気付かれないように、少しずつ必要なものを借りてくるの。ゼッケンやクッキーやお砂糖、電気やガスも…。お父さんのおじいちゃんの頃から、そうやって暮らしてきたわ。」
「今までずっと気付かれずに?」
「たぶん…。」

 このセリフだって、必要がない。なんでも説明しちゃいけないと思う。説明しなくてもいいような表現を映像によって行うことが理想だと思う。そんな中、この作品のキーワードでもあり、十分に今までの描写の中で伝わっているであろう「借りぐらし」について、わざわざセリフによって説明を行っていた。これもラノベ病の具体的な現象のひとつだろうと思う。
 他にもラノベ的な文脈欠如・動機不明瞭な側面は多い。先のローリエの葉や海を見たいと願うホミリーといった小人らしい表現も記号的で物語の文脈との接続がなく、取ってつけたような印象を与える。翔の人物設定に関しても離婚した母親や病気の息子を放っておく母親という記号的な設定が目立ち、それを下支えするような具体的なエピソードは用意されなかった。ただセリフとして「言われた」だけであって、母親に放っておかれていることに由来する翔の姿はほとんど描かれなかった。それだけで翔が人間関係に乏しい生活を送ってきたと考えるにも飛躍が生まれてしまう。翔の母親設定も物語に有機的な関連性を持っていたわけでなく、設定がそれぞれにバラバラなままとなっているように感じる。その点、ハルさんが小人に対して害を成す行動を取った動機に関しても不明なままだった。ただアプリオリに悪役としてハルさんが印象付けられてしまい、なぜ小人に執着するのか動機が説明されないままハルさんが勝手に物語をかき回した印象がある。
 母親が子供を放っているからと言って何か物語に影響があるわけでもなく、ハルさんは無条件に悪役を押し付けられており、翔の心臓の病気というのもありふれた設定だったし、翔がアリエッティにいじわるな言葉を言う動機でさえも不明瞭なままで、翔とスピラーの対比が生かされることもなく、飛躍めいた意味不明な翔の臭いセリフによって強引な幕引きとなった。それぞれの設定が生かされることなく、文脈を無視した付け焼刃的なものとして印象付けてしまい、セリフやシチュエーションや設定ばかりが先行するラノベ病と同様の症状があるように見て取れる。
 セリフではなく映像によって表現することは宮崎アニメの特徴のひとつじゃなかったんだろうか。アリエッティはそれを引き継いでいなかった。確かに背景の描きこみはジブリらしさを残してはいるものの、物語として映像をどのように演出していくのかといった理念が感じられない。アリエッティは内容的に積極的なものがなかったからこそ弊害が目立つわけではないが、ゲドに共通する悪弊があったように思う。

■翔の言葉足らずなキャラクター像

「この家には君の家族の他にも小さい人たちはいるの?」
「ここにはいないわ。私たち三人だけ。」
「他の家には?」
「きっといるわ!会ったのはまだ一人だけど。」
「そう。でも、そのうち君だけになってしまうんだろうね。どんどん、少なくなっているんでしょ?君たちは滅びゆく種族なんだよ。」
「そんなことないわ!まだたくさんいるって、スピラーも言ってた!!」
「スピラー?」
「私たちの仲間よ。スピラーは他に何人も仲間がいるって!」
「君は、この世界にどのくらいの人間がいるか知ってる?67億人だよ。」
「67億人…。」
「君たちは?」
「知らないわ。」
「もう何人かしかいないんだよね。僕も母に聞くまでは、君たちのこと知らなかった。これまでにも多くの生き物が絶滅してきた。僕も本でしか見たことないけど…。美しい種族たちが地球の環境の変化に対応できなくて、滅んでいった。残酷だけど、君たちもそういう運命なんだ。」
「運命ですって?あなたが余計なことをしたから、私たちはここを出て行くことになったのよ?なんとしても生き延びなきゃいけないって、お父さんも言ってた!だから、危険があっても新しいところへ行くの!!そうやって私たちの種族が、どこかで工夫して暮らしているのを、あなたたちが知らないだけよ!!私たちは、そう簡単に滅びたりしないわ!!」
「ごめん、君の言う通りだよ。本当は、死ぬのは僕のほうだ…。ここがよくなくて、来週、手術するけど。きっとダメだ。小さいときから病気で、何もできなかったから、君を見たとき、守ってあげられたらと思ったんだけど…。やっぱり、ダメだった。本当にゴメン。」
「病気、そんなに悪いんだ。」

 長いセリフだなぁ。。これもジブリにしては珍しいように思う。いや、ゲドでは見かけたか…。ここでも「滅びゆく種族」という切り口のわからないセリフが出てくる。なぜ翔がアリエッティを絶望に追い込みたいのかわからない。そりゃぁ、自分が心臓の病気で死を目の前にしているという動機が用意されているんだろうけど、だからと言って、あまりにも唐突な翔のメランコリーだった。もしもメランコリックな翔を表現したかったのであれば、もっと相応の表現が盛り込まれても良かったと思う。この点に関して言葉足らずのまま、ラストの「心臓の一部」とか「生きる勇気」につながってしまった。これも記号的にキャラクターやセリフを考えている側面のひとつと言えるだろうか。あまりにも翔の心情変化の描写に丁寧さが欠けている。
 翔は自分の死を前に絶望に駆られており、アリエッティたちの滅亡を自分に重ねて見ようとしている。すでに生きる勇気を失っている翔だが、それに対してアリエッティは「なんとしも生き延びなきゃいけない」と力強く返答する。そんな困難にも立ち向かおうとする前向きな姿勢に感化されて、翔は「生きる勇気」を見出すのであった。
 翔の内面を追いかければこんな風になるんだろうけど…。あまりにも筋が通りすぎていて逆に気持ち悪いwここらへんが安易に思える原因のひとつになる。。翔はアリエッティのセリフと一部の冒険にしか接していないにも関わらず、急に「生きる勇気」を手に入れたことになる。動機付けとしてはあまりにも安易すぎる。
 アリエッティの凛とした生きざまやキャラクターが強調される一方で、物語の重要なキャラクターである翔の内面描写はおろそかなものになっていたように感じる。結果、物語のラストに向けて細い筋しか通すことができず、取ってつけたかのような印象を与えることになったのではないだろうか。翔のキャラクターが気持ち悪いという評判を聞くことがあるけど、それも翔がいわゆる「中二病」と呼ばれる症状を一部含んでいるからじゃないのかな。

■理想的な家族像への病的な憧れに端を発する翔の暴力性

「近づくなと言ったはずだ。」
「ごめんなさい。自分でなんとかしなきゃと思ったのに…。でも、姿は見られていないわ!」
「お前は家族を危険にさらしているんだぞ。二度と関わりあうな、いいな。」

「来てくれたの?待って、行かないで!」
「もう私たちに構わないで欲しい。それだけを言いに来たの。」
「君と話がしたいんだよ。」
「人間は危険なの!見つかったら引っ越さなきゃいけないって、お父さんもお母さんも言っているわ。」
「家族がいるんだ。いいね。」
「あなたにはいないの?」
「いるけれど、父にはほとんど会えないし、母は仕事が忙しくて、あまり一緒にいられない。」
「そうなの…。」

 この作品でテーマとして扱われている内容に家族がある。アリエッティは典型的な家庭の中で育ち、その環境に帰属することを父母に求められている。そんな状況でさえも翔にとっては理解できないはずだった。翔の両親は離婚しており、おそらくは親権を持っているであろう母親は仕事のために海外へと出かけている状態だった。そんな翔を引き取ったのが大叔母という遠い位置の親戚だという事実もまた家庭環境の複雑さを物語っていると思う。
 ただ、この設定もあまり物語に生かされなかったように思う。やはり理想的な家族への憧憬から翔はアリエッティへの興味を持つという動機を想定することはできるけれど、それも具体的な表現が作中にあったわけではない。

「台所、気にいってくれた?」
「あなたのせいで、家はめちゃくちゃよ。」

 翔がアリエッティの家に無理やりドールハウスの美しい台所を増設したのも不気味だった。あんな思いやりのない暴力的な押しつけは親切でも何もない。それを親切だと思い込んでアリエッティのために行動した翔の精神性には病的なものを感じる。ここらへんのアリエッティと翔の温度差は具体的で良かったけれど、ここから恋愛関係に発展して洗濯バサミを渡すにまで至るとは想像に難い。自分たちを引っ越しに追いやった一番の原因を作ったのは翔に他ならない。アリエッティはこの事実をどうやって解消したというのだろうか。
 つまるところ、翔というキャラクターは自分に構って欲しいという動機からアリエッティに無理やり関係性を持ちかけたわけであり、それは同意もなしに性行為に及んだ場合と状況は同じように思う。無理やり犯して中出しして、すいません責任取るので結婚してください、みたいな感じ。相手の感情など考えずに、ただ自分の理想をあてがうために相手に付き合ってもらう感じ。理想的な家族に対するヤッカミや憧れから衝動的に翔はドールハウスの寄贈を思いついたんだろうけど、そこには一方的で乱暴な感情しかなかったように思う。それに対してアリエッティが感謝する構図は全く理解できなかったし、それで恋愛を成立させようとすることにはジブリらしさを失って汚点を残すようにしか思えない。今まで純粋で双方向で理想的な恋愛を描いてきたジブリなだけに、この至って男性的で暴力的な恋愛の構図は異様である。アリエッティは翔のどこが良かったのか。

■これも中途半端だった絵柄

 先の『崖の上のポニョ』では写生的な絵柄よりも印象的な絵柄を押し出すことで、これからのアニメの向かうべきひとつの道が示されたように思っていた。たとえば、雨が人の顔の大きさほどになって降ってくる様子はソースケの心象を反映してのことだったろうし、海のうねりが魚の姿になって押し迫ってくる様子も同様に写生よりも印象や心象を重視したことの表れだったように思う。実写では不得意であろうアニメの可能とする特徴的な表現方法を最大限に生かした絵柄は、まさしくアニメの面目躍如たるものだった。
 しかしながら、今回のアリエッティはその方法は少し後退した感じがする。部分的にはポットから注がれるお茶の雫やアリエッティの流す涙などで同様の印象的な表現が使われているものの、全体的にはハウルあたりの頃に下がった感じがする。そう考えると、今回は映像表現として何か進歩があったのかと言えば何もなかった。
 では、写生的な方針へと転換したのかと言えばそうでもない。登場するコオロギやカラスはデフォルメされていたし、妙に小人目線のカメラワークからは遠景が排除されて映像的な開放感がなかった。そういう意味でも、絵柄において中途半端な感じがする。ある程度、リアリティを持たせる方向で描いているのかと思いきや、デフォルメした動物を登場させてファンタジックにする部分もある。その境界がぐちゃぐちゃだった。ポニョは上手い具合に写生と印象とのバランスを保って描いていたけれど、そのコードが今回はなかったように思う。
 唯一、遠近感に関しては気配りが見られた。ただ、これもジブリらしくないように感じる部分でもある。冒頭で流れる家の前の庭の雑草には妙な遠近感があった。一枚の絵で構図から遠近感を表現したのではなく、いくつかのBOOKを重ねることによって遠近感が出されている場面がいくつかあった。あんまりジブリでは見かけない手法だったような気もするけど、門外漢なのでよくわからないw

■アリエッティ企画前夜

 プロデューサーの鈴木敏夫さん名義で「借りぐらしのアリエッティ企画書」なる文書が出ている。いくつかツッコミどころがあったので、具体的に引用しながら掻い摘んで触れてみたい。

「しかし、いま、なぜ、「床下の小人たち」なのか?その質問をすると、宮さんは苦し紛れにいろんなことを言い出しました。この話の中に登場する「借りぐらし」という設定がいい。今の時代にぴったりだ。大衆消費の時代が終わりかけている。そういうときに、ものを買うんじゃなくて借りてくるという発想は、不景気もあるけど、時代がそうなってきたことの証だとも説明してくれました。」

 いやいや、こじつけでしょーw企画書ってこういうものなのかもしれないけれど、いくらなんでも理由として根拠に乏しい。加えて、作中において大衆消費の時代に対する提言などは尾ひれものぞかせなかった。まったくの筋違いとしか思えないw

「物語は、小人たちのくらしからアリエッティと人間の少年の出会い、交流と別れ。そして、酷薄な人間のひきおこす嵐をのがれて、小人たちが野に出ていくまでを描く。混沌として不安な時代を生きる人々へこの作品が慰めと励ましをもたらすことを願って……。」

 監督はこの企画に縛られていたのかなぁ。。他にも「古典的な家族の姿」という言葉があって、これもアリエッティの家庭に当てはまるものだったと思う。この物語の大枠が宮崎さんの発案によるものだったということが確認できる。ただ、あまりにもこの企画を素直にやりすぎでしょwもっと企画のダメにツッコミながらやるべきだったような…。物語の切り取り方にしたって、あれじゃぁ中途半端だった。むしろ、ヤカンに乗って引っ越してからのアリエッティたちを見てみたい。まだまだ物語は序章でしかなく、これからも続く素地を残している以上、どうにも始末の悪いエンディングになっているように思う。もっと宮崎さんの用意した枠組みを覆すほどの勢いがあればよかったのかもしれないけれど、やっぱり大御所の言うことには逆らえないよねw

「いくら老いてますます盛んといっても、限界があります。「ゲド戦記」で若い宮崎吾朗を起用したように、若い力が必要でした。」

 若い監督の起用というのも、こういった背景があるらしい。いや、このまま行ったらジブリは完全に潰れちゃうよね…。『ハウルの動く城』では企画段階で細田守監督にオファーしていたものの諸事情により頓挫、『ゲド戦記』では嗣子たる宮崎吾朗監督を担ぐも内容的に大失敗、『借りぐらしのアリエッティ』では弟子たる米林宏昌監督を指名するも特徴のない作品に仕上がってしまった。外部の有望株に譲るも組織的に上手く行かず、世襲の可能性を模索するも未熟なため失敗し、弟子の中から抜擢しても肝心の骨組みがなかった。さて、次の一手はどうするんだろうか…。もう一作くらい駿監督が作って、その次をどうするのかだよね。。

「普段、滅多なことでは表情を変えない麻呂が驚きました。監督って、思想とか主張が必要ですよね。ぼくには、それが無いし。そこでぼくと宮さんが大きな声で同時に叫びました。それは、この原作に書いてある!麻呂は、茫然としましたが、しばらくして、監督を引き受けることになるのです。」

 麻呂とは米林監督の愛称だそうです。いやぁ、ご自身で自覚していらっしゃる。まさしく思想とか主張のない感じの作品に仕上がりました。そんな中でも、潜在的にだろうと思うけど、男性的な暴力性が表れたのはどこに起因するんだろうか…w原作には思想や主張があったのかもしれないけれど、あまり本作には反映されていなかったようにも思う。なんだか、見切り発射的な企画だったんじゃないの?と思わせる企画書だった。



 さて、ヤカンに乗ったアリエッティたちは無事にドンジャラ村へと到着し、ホイくんたち一同に迎え入れられるのでした。きっと、あの続きはそうなったに違いない!wドンジャラ村のほうが思想や主張があったように思うなぁ。。まったく、オリジナルな部分が暴力的な恋愛模様とは、なんとも悲惨だ…w

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/07/23(金) 02:11:22|
  2. 借りぐらしのアリエッティ
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