土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『東のエデン 劇場版Ⅱ Paradise Lost』の感想。

「ノブレス・オブリージュ。今後も、君たちがこの国の潜在的な救世主たらんことを切に願う。」
『東のエデン 劇場版Ⅱ Paradise Lost』より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 ええぇ~!!だったら、「潜在的な救世主」の具体的なエピソードを最初の最初から描くべきだったんじゃないの!?今まで英雄による改変を本筋として描いてきたのに、最後に得た結論が草の根レベルでの意識改革だったとは…。なんだか最初に投げかけられた命題を覆すような結論になっていて、呆気に取られてしまった。そりゃぁ、それもひとつの着実かつ無難な解決方法なんだろうけどもさ、自分の出した問題提起を引っくり返したら元も子もないじゃんwさすが、人の斜め上を行く朗くんだけはあるけど…。って、納得できるかっ!!wまったく、最後は説明文に匹敵するセリフ回しで物語の収集を図ってしまい、具体的な行動による表現が行われなかったのも残念でならない。社会状況に対する分析や問題の所在に至っては『攻殻機動隊S.A.C.』の焼き直しと思える部分が大半だったし、恋愛要素として盛り込んだ内容も中途半端なまま投げられちゃったし、理念ばかりで具体的な内容が少ない以上は作品の意義を見出すことが困難なように感じられる。っていうか、朗って結局はクゼ・ヒデオと同質な人物のように思えてならない。落とし所も朗が「下部構造に残った人間に対し、絶えず上部構造を意識させ、啓発していく存在」になっちゃった感じがするし…。英雄は死ぬことで完成されるっていうこと?なんだろう、この甚だしいモヤモヤ感は…。どこかの人類補完計画がテレビの前のチルドレンに向けてメタ構造を利用して行ったように、視聴者に対して無意識化で啓発的な内容を刷り込んだという点では攻殻とは違った性質を持つのかもしれないけれど…。う~ん、何しろ解せぬ、解せぬぞ!!

※以下、「 」でくくった部分の次に( )がある場合には出典を示したものです。
『攻殻機動隊S.A.C.』⇒S.A.C.
『攻殻機動隊S.A.C. 2ndGIG』⇒2ndGIG
『攻殻機動隊S.A.C. S.S.S.』⇒S.S.S.
『東のエデン』⇒エデン

■いわゆる「お客気分」への反発

「できれば俺も王様になんてなりたくないんです。なったらなったで、きっと責任は全部負っかぶさせられるし、周り中から文句言われて…。たぶん、記憶でも消さなきゃやってられないと思うんです。でも、いちおう受理されたってことは、俺にも何か、できることがあるんです。」

 この「俺にも何か、できることがある」という発想にこそ、朗の理想を象徴する意味合いが含まれているように感じる。つまるところ、神山監督の言いたいことは、「無責任」かつ「お客気分」(2ndGIG)な大衆に対する批判であり、それを解決するためには大衆がそれぞれ自ら能動的に行動する(つまり、お金を「払う=消費する」のではなく「受け取る=労働する」ことに楽しみを見出すようになる)ことが必要なんだということだろうと思う。だから、具体的な行動として朗には自ら率先して「何かできること」を求めさせていたとも考えられる。世の中を取り巻く閉塞感の根幹にあるものは無知かつ受動的ながらも高圧的に展開される権利意識であり、その問題点は「やらされている」という意識ではなく「自分から進んでやっている」という意識へ転換しない限りは閉塞感を打破することはできないということに言い換えることもできるように感じた。国民全員に電話をかけて行動を促したのも、社会のシステムに頼らず「個のポテンシャル」(S.S.S.)に可能性を託したためであろうと思う。

「新聞を一部、譲ってもらえないかね?」
「いいっすよ。…、金はいいよ。一部だけ欲しいって人は、本当に新聞読みたい人だから。」
「一部とは言え、売り物だろう。」
「読まないのに取ってる人からもらうから、大丈夫。ただ、そういうやつほど、なかなか払わないんだけどね。」
「確かにな。時に小僧、なぜ今どき新聞配りなんぞ、やっておる。」
「金もらう練習のため、かな。人って面白いもんで、金の払い方は五歳のガキでも知ってんのに、もらい方は大人でも知らなかったりするんだよね。そりゃぁ、金使うほうが頭下げてもらうより気分いいから、お客様は神様ですなんつって、つい消費者最強を振りかざすけど、あれって本来は売る側の気持ちの話でしょ?」
「そうだな。」
「だけど、みんなが金を払う側になっちゃったら、一体、誰がサービスするんだって話だよね。俺は、金は払うよりもらうほうが楽しいって社会のほうが健全な気がするんだけどなぁ。」

 このセリフによって、お金を「払う=消費する」のではなく「受け取る=労働する」ことに楽しみを見出すべきだとするメッセージが示される。みんなが金を払う側になったところで、その誰もが労働者でもあるわけだから、別にサービスする人間が不在になることはない。ただ、それぞれの立場が場合によって入れ替わるというだけだろうと思う。ただ、そこに問題の端緒があるのかもしれない。つまり、消費者であると同時に労働者でもあるわけだから、「売る側の気持ち」を誰もが共有していることになる。そうなると、たとえ実際の立場が消費者であったとしても、自分が労働者であるときの立場を理解しているわけだから、消費者だとしても「お客様は神様」だという理念を共有していることになる。ここに、「消費者最強」が買う側にも共有されることの萌芽を看取することもできるんじゃないだろうか。
 しかしながら、「消費者最強」や「弱者最強」(エデン)っていうのは社会的な立場の話であって、個人の資質に由来するものではない。どちらも社会的なシステムによって「最強」になっているに過ぎず、彼らが個人に戻った場合には何の権利を主張することも実力を行使することもできなくなってしまう。朗の言う「金は払うよりもらうほうが楽しいって社会のほうが健全」っていうのも、そういった意味で考えれば、社会によって与えられている疑似的な権利や立場を捨てて、個人としてのポテンシャルを向上させるべき(あるいは、お金をもらう手段を身に付けるべき)だということに解釈することもできるかもしれない。アプリオリに与えられる力に頼って生きるのではなく、自らの苦労によって身に付けた力によって生活すべきだということなんじゃないだろうか。権利者の増長に対して警鐘を鳴らすものだと思う。

■アナログへの回帰

 神山監督って「今どき?」な仕事が好きなんだろうか…。先の『攻殻機動隊S.A.C.』でアオイくんがやっていたのも図書館における出版物の保存という「今どき?」な仕事だった。あんな電子媒体での情報流通が主流になっている中で、紙媒体の出版物を保存することは今どき必要なんだろうかっていうような仕事だった。今回の新聞配達にしても電子版が主流になれば必要性は薄くなる。どちらもアナログなメディアに安心感を覚えているようなもんなんだろうか…。
 新聞配達は直接の受け渡しによる生の人間関係の遣り取りが必要になるし、新聞の切り抜きを作るという行為にも「記憶の裏打ち」(2ndGIG)としての意味合いが認められていた。図書館における出版物の保存に関しても、情報の劣化や改変といった憂き目を回避しやすい紙媒体というアナログなメディアの重要性を示唆しているようなものだった。あるいは、紙媒体にはデジタル化できない部分にも様々な情報が潜在的に秘められている。セレソン携帯で指示を出せば世界を動かせることができるほどのデジタルな時代を描きながら、実はアナログなものに対する安心感や、アナログだからこそ持ち合わせる特質の重要性を暗に示しているように感じられる。

■既存社会のシステム破壊と個の再生

「俺は再び、大量の若者を連れて、楽園に消えようと思っています。今度は、半年前の二万人どころではない数を想定しています。それはつまり、この国が将来の貴重な労働力を失ってしまうということです。それを回避するためには、今から俺が出す要求を聞いてもらうほかありません。その方法はたったひとつ…。アガリを決め込んでいるオッサンたちは、今すぐ、必死で貯めこんできたものを捨て、俺たちと一緒に、新たな楽園に旅立つ決意をして欲しいのです。これが俺からの要求です。受け入れられなかった場合には、じきに既存の価値観は失われ、あなたがたの思い描いた楽園も喪失する。今までのミサイル攻撃は、この日のための演習に過ぎません。俺の要求を無視すれば、もっと恐ろしい事態がこの国を襲うでしょう。でも、もし俺の言うことを少しでも聞き入れてくれたら、結構ステキなことが待っているはずです。」

 要は現在の社会システムを破壊して、社会そのものの新陳代謝を促そうっていうことなんだろうか。これって、スクラップ・アンド・ビルドと何が違うの?wそんなに違いがないようにも思えるんだけど…。従来の社会システムを作り上げてきた今の大人たちは、自分たちの作ったシステムを若者に対して安定的に受け渡すことを考えている。それは確かにひとつの方法ではあるんだろうけれども、その場合には若者や新人たちが主体的に思い描く理想を実現するようなことは半ば否定されてしまう。そこで、社会システムの継承を阻止するために「アガリを決め込んだオッサン」に貯め込んできたものを捨てさせ、最初から社会システムを再構築させようとしたんだろうと思う。そうすれば、若者たちは自分たちの力によって社会を作ることになり、それは必然的に自分たちが責任を持つ社会になる。結果、世の中を取り巻く閉塞感も打破できるって感じ?

「かつて、我々はこの国のために、何かを成そうとがむしゃらにやってきた。だが、今になって、あれは過ちだったと歴史の汚点のように言われる。しかし、我々とてあの時代には、右も左もわからぬ新人だった。我々の築き上げてきたものが誤りなら、正解はどこにあったのか…。しかも、ようやく何事かを成したと思ったころに、今度は世界のルールが大きく変わってしまった。この国が深みを増す前に、新しい考えが優位性を以て台頭してきた。年寄りにそのことを受け入れろと言うのは酷な話だが、それでもやつらに権限を委譲し、責任を負わせてみろ、と言うわけか。日本人が愛してやまない坂本竜馬も白洲次郎も、実際には奇麗な立ち回り方を選んだが故に、その一張羅に土がつかなかったに過ぎん。だが、この国の本当の救世主は、日々をこつこつと生きた名もなき者たちであり、結果、いっぱい血にまみれてこの世を去った歴史の敗者たちだ。その事実を無意識に嫌うものを良しとする趨勢の中、№9はスケープゴートとなり、火中の栗を拾うと言う。面白い。今回のゲーム、これで一旦の幕としよう。勝者は決した!」

 ここでも同様のことを指摘している。今のじいちゃんばあちゃんの時代に作り上げられた社会システムを捨て、そして、「新しい考え」を持つ人間に「責任を負わせてみろ」っていうことだろうと思う。しかも、論理的な飛躍とも思えるような流れでもって、英雄を否定して草の根レベルでの改変を促している。っていうか、後半部は何が言いたいのかわからなかったw
 既存の社会は自らのシステムを安定的に移譲するために、若者や新人に対して従順であることを求めてきた。同時に、その社会に帰属する成員にはアプリオリに権利を与えることによって、社会に従わずに個を保っている人間に対する優位性すら保証してきた。そんな癒着とも言えるような関係性が閉塞感の根源にあるように思う。結果、若者の持つ新たな個が発揮されるべきステージを悉く踏みにじることになり、既存の社会システムを強要することにつながってしまう。しかし、誰も主体的にその社会システムを受け入れようと意志を明示したわけではない。すべては暗黙のうちに禅譲されようとしている。これらの相互に依存した関係を打破し、社会システムや社会の総体による意志決定を避け、それぞれの個へと還元することにこそ、神山監督が朗に投影した理念があるものと思う。ここで大切なこととして主張されていることは、「新たな楽園」=新しい社会を作り上げることであって、「俺にも何かできる」という思いから各自が行動を起こすことだったのかな?社会に頼らず、自ら技を身に付け、自分たちの責任のもと、自分たちのための社会システムを作り、失敗しようが成功しようが、がむしゃらに行動するっていうことなのかもしれない。それを抑制してしまう既存の社会を破壊し、社会システムから解放された個の再生を促したのが、朗の行ったことなんだろうと思う。

「ノブレス・オブリージュ。今後も、君たちがこの国の潜在的な救世主たらんことを切に願う。」

 これってさ、『攻殻機動隊S.S.S.』のラストでトグサの言っていたセリフと丸かぶりじゃね?wトグサの場合には「願わくば、成長した彼らが、将来、個のポテンシャルを上げて、我々が出せない答えを見つけ出してくれることを、祈るばかりだ。」って言っていたけれど…。ここらへんも、いわゆる「個の再生」を思わせる部分ではある。お祈りしてる暇があったら、自分で動けよとか思うけど…wなんだろう、エデンの作風もそうなんだけど、現状分析ばかり先行してしまっていて、具体的にどう行動すれば問題が解決するのかといった疑問に対する答えは弱いんだよねぇ。その点、こうやって「切に願う」的な締めくくりで終わってしまうのが残念なところだ。
 合わせて、ここでいう「潜在的な救世主」っていうのは才蔵の言っていた「日々をこつこつと生きた名もなき者たち」のことだと思う。つまり、「潜在的な」の意味は才能が発露していないっていう意味ではなくて、巷に隠れているっていうくらいの意味で受け取ったほうがいいと思う。このセリフって微妙にメタっぽいニュアンスがあるように感じるんだよねぇ。視聴者に対して、この作品を通して語ったことを実行して欲しいみたいな…。問題提起だけやらかして、後の具体的な解決策に関しては視聴者に丸投げっていう感じがする。それこそ、視聴者のポテンシャルに期待しているってことなんだろうか。ちょっと作品としては未完成と言わざるを得ないよね。。

■物部という好対照

「悪いが、総理だの王様だのと言った話は遠慮させてもらうよ。国民というのは一億人のエゴイスト集団だ。君だって、それは痛いほど知ってるんじゃないのかなぁ。今や、総理大臣など、ただの生贄に過ぎない。自由を手に入れ、不自由になった国民のストレスの捌け口と言ってもいい。」

 物部の口を通しても「無責任」で「お客気分」な大衆への批判を展開している。国民をエゴイスト集団だと言い切るところには、物部を悪役として設定したからこそ大胆なセリフを宛てているような感じさえする。けれど、それが本音だったりして…w確かに、今までもクゼ・ヒデオの口を通して「お客気分」だのと言わせていた経緯もあるからには、神山監督の無自覚・無責任な大衆に対する怒りは相当のものなんだろうね。。

「じゃぁ、物部さんは、どうやってこの国を小回りの利く国にしていくつもりなの?」
「まず第一に、国民に気付かれないように自由を奪う。国民ってのは無責任で、何も自分で決められないくせに、他人の意志で動かされるのは嫌うからね。それで私は、内務省を復活させ、そこからこの国を変えて行こうと考えている。」

 この内務省って、『攻殻機動隊』で公安九課を所管することになる内務省へと話をつなげようとしているんだろうか…。どうでもいいんだけどw
 物部の場合には「個のポテンシャル」に期待をかけていない立場を取らせている。そこらへん、朗とは好対照な立ち位置になっていると思う。そのため、若者それぞれの自発的な行動による世の中の改変を促すのではなく、自らの手腕によって半ば強引に改変を誘導しようとしている。したがって、その方法として内務省の設置を考えているわけであり、「日々をこつこつと生きた名もなき者たち」などを宛てにするわけもなかった。

「君の携帯に残っているのと同じだけの現金を逃走資金として用意する。今後はサポーターの心配もない。君の仲間にかけられている嫌疑も解こう。それで、どこへなりと好きなところに消えてくれないか?」
「それも悪くないかもね。ひとつ、聞きたいんだけどさぁ。物部さんが言う国民って、物部さんからしたら、どんな存在?」
「愚問だなぁ。国民とは、あくまで国家を構成するパーツの集まりに過ぎない。個人的な感情を注ぐ対象ではないよ。」
「でも、一人一人はみな、何者かに成りたいと思ってる個人なわけでしょ?」
「それが厄介なのさ。全員が何者かになるなど、そもそもあり得ないことだからね。」
「それはそうなんだけどさぁ。でも、もう少し個人を尊重したほうが、力が出ると思うんだけどなぁ。俺だって、日本を救うために選ばれた一人って言われなかったら、ここまでやれなかったと思うし…。物部さんのやり方って、ちょっと愛がない気がするんだ、俺…。」
「それは私の申し出を断るということかい?」
「それもあるけど…。俺、一度テロリストとして、正式にこの国に要求を突き付けてみようと思うんだ。初めは王様になってなんとかしようって思ったけど、そんな時間もなさそうだし…。ホワイトハウスのときみたいに、何者でもない俺としてさ…。」

 物部は個人を否定する。あくまで既存の社会と同様に、個人は社会を構成する成員でしかない。そういった意味では、物部は現在の社会に対する反省を行っていない部分もあると言える。それを朗の口では「愛がない」と言いきってしまう部分に簡潔な表現があるように思うけど、一方では飛躍しているようにも感じるw結局、なぜ個人の力に頼ったほうがいいのかといった考えの根拠は示されなかった。この部分も残念なところなんだよね。。

■ニートの自宅座り込み運動

「ニートにもともと日常など存在せん!」

 なんだか、また知ったようなセリフが…w今までも「うぷ乙!」とか言ってニート的な言葉を発していたけれど、どうも中身が伴っていないような気がする。確かに、ニートは非日常を生きる存在であるっていうのは納得のできるものではあるんだけど、だからと言って、作中で具体的にニートの非日常性について言及した場面があったわけではなかった。結果、言葉の上でニート的な言葉をなぞったくらいでしかなくなってしまう。それにしても、神山監督は「凄腕ニート」だなんて言ってニートを称揚しているけれど、どれだけニートに実力があるのか不透明だし…。ちょっと過大評価している気配もある。

「やっと、本気で打ち込めるものを見つけてくれたか…。」

 でも、このパン屋のセリフは良かった。自分のやりたいこと、あるいは、自分のやるべきことを見つけた咲に対するセリフだった。

「ここは全共闘時代、闘革連がセクトの指示で成田闘争に参加すべく、彼方東を目指して掘ったトンネルです。」
「なるほどの、団塊世代が闘争ごっこ繰り広げたトンネルに、ピンチを救われるとはのぉ。」
「唾棄すべき世代の遺産を使って、敵を出し抜く…。痛快な気分です!」
「じゃが、こういったモンを、わしらも積極的に受け継いでいかにゃぁ、いけんかったんかもわからんのぉ。」

 要は、がむしゃらに既存の社会と戦うぐらいの気迫を持つべきだったということだろうか。今のニートは戦うことすらしないまま、自宅に「座り込み」を続けている。

「それでは、自宅で座り込みを続けているニート諸君、次は君たちの番です。AIR SHIPで、約束の地、東のエデンに集合するように。待ってます。」

 この「自宅で座り込み」って表現が面白いwつまり、自らの労働力を社会に提供することなく、無言のまま自宅に居座ることで抵抗運動を続けているっていう認識を、神山監督が持っているわけでしょ?これは確かに面白い見方だと思う。先の朗が行ったことの意味と合わせて考えると、既存の社会システムの押し付けを嫌った人間たちが自宅に立て篭もって無言のデモを行っているわけであり、咲のように主体的に「やりたいこと」を見つけることがニート卒業の好例と考えているように思う。ただし、既存の社会に文句があるのであれば、団塊の世代が行ったように過激な行動に出ることも可能性としては持つべきだったという反省も持っている。ニート問題と合わせて、世の中の閉塞感を考えているように思う。
 そんなニートたちが作品のラストでは経済活動を行っていたwしかも、豊洲で自治をやってるっぽかったでしょ?つまり、朗の呼びかけによって、豊洲のショッピングモールの中に若者だけの「ニート経済特区」みたいなものができあがったっていうオチだったと思う。まぁ、ひとつの結論にはなるんだろうけど、なんだか地味だなぁ。。
 っていうかさ、咲の言う「見えないところで何らかの変化が…」っていう言い回しだけは頂けなかった。「何らか」って何だよ!wここらへんも具体的なことを示さずに、逃げてしまった感がある。自分に答えを出せって言われても難しいから無理だけど、なんだか全体的に逃げ腰な感じがして仕方がない。御託を並べてないで、何でもいいから具体的な事例を挙げて欲しい。

■この作品に恋愛要素は必要だったのか

「滝沢くんの過去は、今もどんどん消えています。でも、あやさんとの過去がわかれば、滝沢くんは、かなり救われると思うんです。もし、このまま、滝沢くんがテロリストとして世間にさらされることになっても、滝沢くんが本当に飯沼総理の息子だったら、今の状況を変えられるかもしれない。」

 結局、朗は飯沼総理の私生児ではなかったけれど、あやさんの生んだ子であるっていうことは確定だったのかなぁ。。途中では本当に私生児であるというミスリードを用いながら、右往左往させられたわけだけれど、朗が自らの母親を知ることでアイデンティティを獲得するっていう行はあんまり生かされなかったように思う。朗にとって、母親がいようといまいと、あんまり彼の生き方に影響がなかったように見える。というか、母親が見つかったことに対するリアクションが薄かった。

「滝沢くんは、わけあって、百億のお金を自由に使える立場にいました。でも、一円たりとも自分のためには使わなかった。そういう人です。」

 結局、朗の母親探しというエピソードは、朗のアイデンティティに関わるものとしてではなく、咲の恋心に関わるものとして意味合いを持っていた感じがする。

「電話してあげればいいんだよね、滝沢くんに。お母さん、見つけたよって。あの人は、滝沢くんのお母さんだったよって…。」
「だったら、なんで躊躇うの?」
「そのこと言っちゃったら、伝えちゃったら、滝沢くん、もう私のところには、戻って来ないと思うから…。」

 うわぁ、今は朗が自分のところにいると思っている咲の傲慢さが…。とか、意地悪なことは言わないことにしておこうw実際、朗が咲のことをどう思っているのかといった内面に関しては、あんまり描写されていなかった。咲が勝手に恋しちゃっているようにさえ見えてしまう。
 ただし、この場面においては朗に打ち明けることを躊躇っていたけれど、結局は朗に伝えることになる。咲には朗の母親のことを秘密にしておくという選択肢があった。そうすれば、咲は朗と一緒にいることができる可能性を持つことができる。それでも打ち明けた背景には、咲が朗と一緒にいたいというエゴを捨てたことがあるように思う。TV放映分でも、咲は無責任なお客気分でいる大衆の代表であるかのように描かれた経緯がある。それを踏まえるならば、咲は自分の都合によって朗の行動を制限することがあってはならないことになる。今まで大衆が朗に強いてきた苦痛を思えば、ここで咲が自らの勝手な判断によって母親の所在を伝えないことは、自らの過去の過ちを再度犯してしまうことにもなる。そう考えたために、咲は母親の所在を伝えたものと思っていた。
 けれど、実はそうじゃなかったのかもしれない。最後の場面では「絶対、戻ってきて!」って言っちゃうんだよねぇ。。戻って来なくていいとさえ思ったから母親の所在を伝えたんだろうと思ったけれど、ここで戻ってきてと言ってしまうことの脉絡がわからない。母親の所在を伝えない身勝手さがあるわけでもなく、自らの思いを秘めて朗を無言で送り出すわけでもなく、結局は自分の気持ちを隠すことをせずに安易に「戻ってきて」と言ってしまう。乙女心と秋の空って考えるベきなのか、安易な恋愛のオチをつけただけなのか…。なんだか納得できないんだよねぇ。。
 ずっと社会的な問題について扱ってきたわけだけど、そこに恋愛要素を盛り込む必要があったのか疑わしい。むしろ、恋愛要素を扱いきれていなかったように思う。あんまりアニメを見ない人々を取り込んだりする偽装面で効果を発揮したのかもしれないけれど、もっと正々堂々と社会的な問題をバリバリと扱えば良かったのに…。

■『攻殻機動隊S.A.C.』シリーズとの連接

 作中でも「相続税100パーセント」とか「内務省の設立」とか、いろいろと攻殻の前史にあたるような内容が盛り込まれていた。
 それ以上に、どちらの作品にも共通して、神山監督の一貫した視点があるように感じられる。というよりも、言ってしまえば、攻殻でやったことをエデンで簡易に焼き直した感じさえしてしまう。攻殻はコアな作品だったけれども、エデンではもっと受け口を広く取ったような体裁になっているように思う。
 朗のやっていることとクゼ・ヒデオのやっていることには共通点が多く見受けられるし、大衆を「無責任」だの「お客気分」だのと考える点は攻殻とまったく同じ部分になる。セリフレベルでも似たような表現は多く指摘することができるし、どうにもエデンは作品として攻殻に重複する部分が多くある。攻殻を柔らかくした感じって言えばちょうどいいのかな?攻殻を知っている身としては、もっと新しい切り口から攻め込んでほしかったところではある。確かにニート問題や草の根レベルでの意識転換なんてのは攻殻になかった要素ではあるけれども、だからと言って新しい知見があったわけではなかった。かなり曖昧に説明口調で終わらせた部分があった上は、なんだかなぁっていうモヤモヤ感が残る。



 あまりに客観的に現状を分析し過ぎてしまっているようで、作品そのものに当事者意識が感じられない結果になってしまっているんじゃないだろうか。最後には希望的観測を述べるに留まって無責任に解決策を投げ出してしまっているし、問題提起ばかりを行って走り去ったような印象すらある。ちょっとねぇ…。とは言え、若者たちが自分たちの意志で右往左往する姿っていうのは意外にも新鮮だった。従来のアニメが主要なキャラクターとして取り上げてきたのは、中学生や高校生といったハイティーンばかりだった。それはジュブナイルとして内面の成長を描くのにちょうどいいっていうのと、主な視聴者をハイティーンに考えていたことの表れでもあると思う。でも、エデンでは就活中の年代を取り挙げた。ある程度大人になってしまっているけれども、まだまだ社会人にならず未成熟な面を残している年代だと思う。そこに新たなフィールドを見出して物語を作ろうとしたことは良かった。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2010/08/11(水) 01:10:17|
  2. 東のエデン
  3. | トラックバック:0
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  1. 2014/02/10(月) 13:51:16 |
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