土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『ガサラキ-GASARAKI-』全25話の感想。

「この世界を動かす意志は、個々の人間のことなど考えはしない。そこにあるのは、圧倒的な無関心だけだ。だから、だから…、この身が世界を動かしてみせる!それだけだ。」
「僕は無関心な神になるくらいなら、悲しみを知る小さな人間になる。」
『ガサラキ-GASARAKI-』#22「権化」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 やっと見終わった!!w最後まで行くのに苦労しました(^_^;)なんていうか、トーンが重くって、間延びしちゃった部分もあって。。。他にこの作品と似ているアニメってなんでしょう?あんまりないと思う。ロボットは出てくるけど、SFっぽいけど、そういうわけじゃない。敢えて括るとしたら、「終末思想アニメ」?wいや、この発想を含むアニメは意外と多いんです。そもそも、近未来SFなんかは人類の滅亡や衰退を前提としていることが多いですし、そこには「今」の人間に対する批判やら内省を促す素材がちりばめられる。やっぱりジャンルはSFになるのかな?wでも、別に近未来ってわけでもない。むしろ、現代とはパラレルな関係にある舞台を設定しているように感じました。あと、こじつけかもしれないけど、どうも『攻殻機動隊S.A.C.』の神山さんの源流を感じる…。『機動警察パトレイバー2 The Movie』でも同じような発想の匂いがしたような…。
 と、言うのは、たとえば『機動警察パトレイバー2 The Movie』では荒川が「後藤さん、警察官として、自衛官として、俺達が守ろうとしているものは何なんだろうな…」っていうセリフがあります。当然、自衛隊の人ですから「守るもの」とは「日本」のことを指していると考えられます。だけど、その守る対象であるはずの日本に対して、守る必要があるのか、守りたいと思えるほどの国なのか、という疑問を投げかけているわけです。これはガサラキにも共通する「日本」への疑念と言えるでしょう。それは、↑に書いた#22でのやり取りからも読み取れます。いわゆる「日本」に「無関心」が蔓延していて、なんとかしなきゃいけないだろうっていう発想。ガサラキでは、その解決方法として兄の豪和一清は自らが「無関心」を操る「神」としての存在になろうとして、ユウシロウは個人への回帰を主張しています。その点では、『攻殻機動隊S.A.C.』に似ているところがある。つまり、「無関心」とは合田一人の言う「動機なきものたち」にも通じるものがあって、合田はその大衆の「無自覚・無関心」によって形成される「総意」を利用することで自らのプロジェクトを演出しようとする。「個人の意志からは離れた部分で形成される権威的な社会統治システム」の具現を「神」と呼ぶならば、それは「大衆の総意=神」としてもいいんだと思う、っていうか、それを言いたいんじゃないのかな?加えて、ガサラキではクーデターの首謀者である西田啓とシンボルの最高経営責任者であるファントム・F・フィーゼラーのやり取りも、『攻殻機動隊S.A.C.』に似ている表現が見出せます。

「本当にそれだけが、あなたの目的なのですか?私は、あなたがそれだけの人間とはどうしても思えません。」
「確かに、私の個人的な目的はもっと別のところにあります。それは、この国を貧しくすること。」
「貧しく?」
「この二百年間、人はただひたすら発展の幻想に踊らされてきました。しかし、宴は終わったのです。今、我々がなさねばならぬのは、人が歴史を刻み始めてから初めて、自らの意志で目の前の坂を胸を張って堂々と下ること。」
「発展の幻想を捨て、坂を下る。あなたの理想は美しい。しかし、その理想を一体どれだけの人間が共有できるでしょうか。私は見てきました。これまで、どれほど多くの人間が夢果て、絶望していったかを。」
「あなたは勘違いなさっている。確かに、私の行いは失敗するかもしれない。しかし、たとえ失敗したとて、私がなそうとしたという事実だけは残ります。その事実こそが次の時代の可能性を生むのです。」

 最後に西田が「確かに、私の行いは失敗するかもしれない。しかし、たとえ失敗したとて、私がなそうとしたという事実だけは残ります。その事実こそが次の時代の可能性を生むのです。」と言いますが、この部分はクゼ・ヒデオの発言にも同様の発想を見出すことができます。

「俺は半島でのできごとで、人生を達観した。矛盾した秩序、強者による搾取、腐敗した構造。だが、もっとも俺をがっかりさせたのは、人々の無責任さだった。自分では何も生み出すことなく、何も理解していないのに、自分にとって都合のいい情報を見つけると、いち早くそれを取り込み、踊らされてしまう集団。ネットというインフラを食いつぶす、動機なき行為が、どんな無責任な結果をもたらそうとも、何の責任も感じない者たち。俺の革命とは、そういった人間への復讐でもある。」
「復讐?」
「俺は子どもの頃から全身義体だったために、心と身体の不一致を絶えず感じていた。できることなら、不自由な身体を捨て、ネットの海へ漕ぎ出したいと考えていた。そんな俺にアジア難民たちは、少なからず生きる希望を与えてくれた。彼らは、俺の作り物の顔をとてもいい顔だと言い、ゴーストが顔に表れているのだと、褒めてくれた。俺はそのときはじめて、心と身体は不可分な存在なのではないかと実感し、自分も肉体を持つ人間なのだと思うことができた。だが、そんな彼らも口当たりのいい情報に出会うと、やはり都合のいい方向へと簡単に流れていってしまう。人間はもともと、低きに流れるようにできているものらしい。」
「で、復讐をどう果たすつもりだ?」
「俺に結線してきているものたちの記憶とゴーストをネット上に運び去る。核が投下されれば、それで彼らも肉体を喪失するが、強制的な進化を遂げる可能性が手に入る。」
「彼らがネット上で個を特定し続けられる可能性は?」
「それはわからない。だが、先駆者として、下部構造に残った人間に対し、絶えず上部構造を意識させ、啓発していく存在にはなれるだろう。太古の昔から、人類が霊的なものに対し、尊敬や畏怖を感じてきたようにな。」
「それがお前を落胆させたものたちへの、復讐と救済か。」
「俺は革命と信じているがな…。」

 最後の「先駆者として、下部構造に残った人間に対し、絶えず上部構造を意識させ、啓発していく存在にはなれる」という部分が西田の発言と似ています。つまり、革命家として、失敗したとしても、その行動がなされたという事実そのものが、後続の人間に大して刺激となりうるということでしょう。ガサラキの西田は資本主義の「拡大」を必須とする性質への批判と同時に、「日本人の本質」へと回帰することを狙っていたようですが、それも「自決」という意図的な行為によって完成を図ります。まぁ、彼が望んだ「日本的」なものがどういったものなのかは最後までわかりませんでしたがwその点では、ユウシロウは「個人」への回帰を主張しています。しかし、一方では合田一人は「個性という名の幻想的オリジナリティー」なんて言ってますが、やはり大衆の本質に「個性」は成り立ちにくいようにも思えますが。とにかく、この二作品には何か共通する背景を読み取ることは確かだと思います。

 現代社会に生きる人間に対する批判と落胆が色濃く反映されているように感じますが、その中でも希望とは何かということをアニメという試行を通して見出そうとする、そんな感じでしょうか?それにしても、ガサラキの「日本」は粗雑な表現だった。各話タイトルで和歌的なものが使われますが、まったく和歌とは思えない仕上がり。漢語使っちゃってるし平安時代に戻った回想の部分では会話がトンチンカンなことになってるし。なんか擬古的ではあるけど、もうちょっと時代考証とか時代設定を考えて欲しかった。むしろ、その粗雑な感じが「日本的なもの」を強く押し出そうとした意志だけを逆に浮き彫りにさせてしまい、きな臭さしか残さなかった。「大衆」が見たら、単なる右よりのアニメとしか思わないんじゃないのかな?wって、今の文脈でも「大衆」をひとつの主体的な人格があるかのように書いてますけど…w
 この作品ではユウシロウが自らの存在を問い続けることになりますが、これも先の『「つくられた人間」考』(未定稿)につながる発想だなぁと思いました。まさに「嵬(カイ)」とは「依り代ろ」であって、時代を超えて人類を監視するためのシステムだったわけです。そんな彼が個人への回帰を結論として出す点は…、どう受け止めればいいんでしょう。たぶん、クゼ・ヒデオもこの系譜に入れてもいいんじゃないのかなぁ。。。与えられた身体に埋め込まれた人格。すると、その人格は果たして本当に自己として認定することができるのかっていう問いかけは当然出てくることになります。クゼ・ヒデオは難民との関わりから、自らの心と身体の一致を感じて革命に奔走したようですが、ユウシロウの場合は最後まで中途半端に終わっちゃったんじゃないのかなぁ。
 最後と言えば、思わぬ展開でしたwまさか最後の最後で宇宙との関わりが出るとは思わなかった…。やっぱりSFなんだなぁ。この作品の後半部はかなり社会的な要素が強かったけど、急にSF要素が加わって驚きました。不意打ちですwっていうか、無理があるでしょう。。。ちょっとこじつけ的な展開だったことは否めないと思います。でも、アニメって「大衆も楽しめる娯楽作品」としての側面がある一方、「説教的・啓発的な内容」を「すべりこませる」ことがよく行われます。なんか調子のいい楽しいアニメだなぁ、なんて見ていると、突然、きな臭いような主張が盛り込まれたりする。『新世紀エヴァンゲリオン』なんてのは典型的ですよね。っていうより、あの作品はその「すべりこみ」が「すべりこみ」と思えないほど強く前面に押し出されているのにヒットしたことが例外中の例外なんだと思う。

 とは言え、こんだけ陰鬱で重々しい作品だからこそ、萌えキャラの「ムラチュー」の登場によってなんとか安心感を保たせているガサラキなのでしたぁw
  1. 2009/05/25(月) 03:28:21|
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