土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『おおかみこどもの雨と雪』の感想。

「…雨!行ってしまうの…?だって、私、まだあなたに何もしてあげてない。まだ、なんにも…。なのに…。待って!雨!!…元気で、しっかり生きて!」
『おおかみこどもの雨と雪』より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 めちゃくちゃ良かった。細田監督と言えば、なんとなく優等生的で味気ないような作品が多かったように思うけど、今回は優等生的ながら魅力のある内容になっていた。いわゆる「公共性」を重視する細田監督でありながら、わりあいアニメアニメした「異端」という非社会的な要素をテーマとして入れ込んだからだろうか。細田監督のコミュニケーションに対する問題意識を通奏低音として響かせながら、公共性と異端のせめぎ合いが画面の外にまで広がって感じられた。相変わらず画面の中身は緻密で無駄のない明快なものだったし、手描きと3Dの融合の度合いが群を抜いて素晴らしかった。突飛だったり先鋭的だったりするわけではないけれど、これほど巧みに3Dを手描きに取り込んだ例はないんじゃないだろうか。じんわりと良さの伝わる作品だったと思う。

■異端を描いた物語として

 細田監督の「公共性」とは、表現の明快さやテーマの普遍性に由来する。今までの『時をかける少女』や『サマーウォーズ』がそうであったように、あまりアニメアニメした内容でないのも監督自身が語るように公共性を意識したことによるものだろう。
 しかし、今回の作品は表現の手法こそ明快さを持っていたものの、扱ったテーマは公共の対義語とも捉え得る異端だった。一見すると、表立っては母親の子育てと子離れを通して描かれる普遍性のあるドラマに感じられるが、その背後には「おおかみこども」という異類が人間社会にどう向き合うかを扱った異端者のドラマが浮かび上がる。この表立った公共性と裏腹にある異端のせめぎ合いこそ、今回の作品における細田監督の真骨頂ではなかったか。
 そもそも、異端を扱うことはアニメの本領でもある。本作と同様に、人の姿をしていながら人ではない存在を主人公とした作品は『人狼 JIN-ROH』『BLOOD+』などがあり、人の姿ではあっても人の持ち得ない能力を身に着けた存在を主人公した作品は『AKIRA』『スクライド』『Witch Hunter ROBIN』『ケモノヅメ』など多い。どれも人でありながら人として扱われない、社会から疎外された人々の姿を描いたものだった。いわゆる「中二病」として記号化される現象にもつながる、自己確立と他者存在の問題に関わるテーマだろう。今回の「おおかみこども」も自分を狼として捉えるか人として捉えるか、その選択が問題となっていた。自分を社会の中でどのように位置づけるか葛藤する様子が描かれており、それは従来の作品群からの流れを感じさせるものだった。
 雪は人であろうとしながらも、草平を傷つけたことによって自分が何者なのかを考えるし、雨は森の中で先生に教わりながら狼としての生き方を学んでいた。そんな二人が家の中でケンカしたところが面白かった。本当なら自我の確立という問題を描くだけに胡散臭さが出てしまうけど、それを人になるか狼になるかといった明快さに落とし込んだあたりが細田監督らしかった。そんな異端の物語が公共性の中で表現されていることが良かったと思う。ここから公共性を抜き取って、明快さや爽やかさを一掃すると、押井監督が脚本を書いた『人狼 JIN-ROH』になるのかなw
 とは言いながら、この作品のテーマはやっぱり「母親の強さ」だったり「コミュニケーションの大切さ」だったり「子育てと子離れ」だったりする。表向きのテーマをしっかりと強調しながら、するっとアニメアニメした要素を入り込ませるところがまさしくアニメアニメしていた。

■アナログコミュニケーションへの憧れ

 前作の『サマーウォーズ』のテーマは何においても「コミュニケーション」だった。ただひたすらに、このお題目をあちこちの場面に散りばめて、顔と顔を付き合せたアナログなコミュニケーションの大切さを強調していた。栄おばあちゃんの電話帳や黒電話しかり、大家族での食事しかり、大量の年賀状しかり、家族の温かさや絆の大切さを表現したとされる。あまりに優等生過ぎて味気ないように思うが、これが公共性でもあるのだろう。

「本当は人目を避けてここに引っ越して来たはずだったのに、いつからか、里のみんなにお世話になってる。」

 今回の作品でもコミュニケーションの大切さや昔ながらの里山の生活に対する郷愁が描かれる。細田監督の一貫したテーマなんだろうか。畑が広くなきゃいけない理由にしても、ご近所さんにおすそ分けして、その代わりに卵やらお米やらをおすそ分けしてもらうためだった。里山での生活が他者との密なコミュニケーションの上に成り立っていることを物語る表現だったと思う。
 ある意味、公共性や普遍性を象徴するようなテーマではあるけど、果たしてアニメでやる必要があるのか。それに、今の社会の中でアナログコミュニケーションを憧れの対象とすることに、どれほどの意味合いがあるのか。もはや里山がファンタジー空間として成立する時代になっているのも確かではあるが、なんともアニメっぽくない。
 雪が庭を駆け回る場面などは『となりのトトロ』でメイが庭を駆け回る場面を意識したとしか思えない節がある。トトロも郷愁を感じさせる宮崎駿監督の大作ではあるが、あちらは子どもの無邪気さの中にファンタジー性を見出していたし、第一、宮崎監督の大人嫌いや社会に対する嫌悪が背後に感じられてならない。おおかみこどもの無邪気さや里山への郷愁には、単に「無邪気」であり「里山」であることのみに終始しているように思う。それを描く動機や意義とはなんだったのか。単なる公共性への従属で説明するには不足があるように思う。

■優等生を脱しきれない

 結局、異端である「おおかみこども」は「里山」というファンタジー空間に逃げ込むしかなかった。彼らは都会では生きることができず、ノーマルではないために社会から一度は排除される。それを受け入れたのがアナログコミュニケーションの残る里山だった。ややもすれば、雨と雪の成長譚としてハートフルに結末を迎える物語だが、その背景には現代社会の異端に対する拒絶反応と里山の持つ寛容さが浮かび上がる。従来のアニメ作品の延長で考えれば、そのような社会に立ち向かって生きる姿があったり、歩み寄りがあったり、両者の壮絶な戦いがあったりする。そのような視点を持たず、ただ里山へと引きこもる花・雪・雨の三人の様子には、なんの解決も見出すことができない。里山という理想郷は現実には存在しない。極端なことを言えば、異端の癖に部屋に引き籠ってリア充を装ってるんじゃねぇ!って感じ。逃げである。
 現代社会が寛容さを失っていることに対する警鐘であると受け止めれば優しいが、ただ美しい物語として異端を描いてしまったために受け取り兼ねる部分が残る。表面は取り繕われていても、中身を伴っていない。描かれるべきことが何も描いていないのではないか。細田監督の作品を優等生と呼ぶ理由でもある。むしろ、雪と雨が「おおかみこども」ではなく、普通の子どもでありながらも里山へと逃れるといったほうが、よほどテーマ性があったのではないかとも思えてくる。なんのための異端であったのか。

■群を抜くコントロール力

 まぁ、なんにしても、画面作りが半端なくすごい。きれい。
 地味に綺麗な手描き作品とも思えるが、実は3Dをうまいこと手描きの世界に取り入れているすごさがある。冒頭のシーンで花が寝転がっている花畑の揺れも、雪や枯葉といった降りものも、暴風雨に揺れる木々も、家族三人で駆け抜けた森の木々も、滝も、大学の周辺を歩いていたモブキャラも、至るところに3Dの技術が使われている。まさか芋堀りのときの土の動きを3Dにするとは驚いたwそれと、雪が自分を狼だと草平に暴露したときの教室のカーテンも3Dだったように見えた。どれも3Dでありながら、自ら3Dっぽさを極力抑えて手描きに馴染ませる工夫がなされている。また、手書きのセル素材も動画を丁寧に割っていることが、3Dの滑らかな動きと親和性を高める原因となっている。それに加えて、背景の画面情報量も極めて高い。ライティングや映り込みをはじめ、アニメ的な省略や嘘をできるだけ抑えようとした風に見える。
 ただ単に技術的に優れているわけではなく、あらゆる作業工程に対する細田監督のコントロールの妙を感じる。ここまでうまいこと手描きのセル素材と情報量の高い背景と3Dとが融合している作品は見たことがない。普通ならば、書き込みの多い背景に対してベタ塗りのセル素材が浮いてしまったり、3Dのポリゴンが目立ったり動きがセル素材の割り方と異なるために悪目立ちしたり、技術はあっても最終的な画面がちぐはぐになることが多い。数多くのセクションをうまくコントロールした上で、バランスのいい調和の取れた画面に仕上がる様はちょっと信じられないすごさがある。

■アニメとしてのアイデンティティー

 そんな素晴らしい画面ではあるけれども、これってアニメでやる必要があるのだろうか。ここまで画面の情報量を高めて、揺れものや降りものを実写の如く動かすならば、最初から実写にしてしまえばいいように思える。誰もが受け入れられる公共性を求めるのであれば、なおのことアニメは向かない。
 確かに、雪と雨が子どもの姿から狼の姿へと変身する場面はアニメの得意とするところではある。ただ、これも現状の実写映画における3Dの技術があれば表現の方法は少なからずあると思う。あちこち気付かないところにキャラクターのデフォルメや表現の省略やアニメならではの嘘のつき方が見られるも、かと言って、アニメである必要性を積極的に保証するものではない。背景の画面密度や3Dを取り入れながら、一方では線の少ない動かしやすいキャラクターデザインを採用している点もアニメ的ではあるけれど、どうだろうか。細田監督がロングショットを中心とした客観性を裏打ちするようなカメラワークを多用する点も、アニメっぽさを感じさせない遠因となっている。
 アニメとしてのアイデンティティーをどこに求めるかは難しい。ただでさえ、ハリウッドの実写映画などの3D技術は進歩する一方であり、アニメの得意とする虚構世界の描写を進んで行えるようになってきている。その中で、画面の情報量を上げようとする方向性には注意を払わなければならない。下手をすれば、アニメである必要性をなくしてしまう。
 アニメの表現は省略を好む。絵的なデフォルメもそうであるし、シナリオの面においても記号化を除いて語ることはできない。嘘パースや見立てもアニメの得意とするところだろう。実写やフルアニメーションは客観性に根差した形態だが、日本のリミテッドアニメーションは主観性に立脚する。そこに何があるのかではなく、それが何に見えるかが問題となる。認識を表現するものであって、現象を捉えるものではない。
 この作品だけの問題ではないにしても、アイデンティティーを失いつつあるように思える。いや、この作品が他の実写作品と肩を並べられるものであるならば、それはそれでいいのだけれども…。

■すぱっとした演出

 省略と言えば、今回も相変わらずの明快さとシンプルさだった。竹を割ったようなすぱっとした演出で、ちょっとすると箇条書きちっくな印象を受ける。けれども、それが一筋につながっているあたりがすごい。
 どうして花が狼男に恋心を抱いたのかとか、どうして韮崎のおじいちゃんが花に好意的だったのか、そういった動機付けは特に描かれない。最初からそういうものとして物語が進む。雪と雨が人と狼の間で揺れ動くという構図もわかりやすいし、都会と里山の対比も明確だし、里山でのコミュニケーションの大切さはセリフで口に出させて徹底して打ち出す。容易く理解できるという公共性を重視したものだろう。
 どうも解釈の余地を残さず、一切の無駄や迷いや複雑さを削り切った表現を目指しているように思える。方針は一貫しているのだろう。





 冒頭のシーンで「これは確かに、私の母の物語です」って言った直後に「おおかみこどもの雨と雪」っていうタイトルが出て思わず笑ったwこどもなのか、母なのか…。主人公は確かに母親である花だったけど、まぁ、その花の視点でおおかみこどもの成長が描かれるわけだからいいのか。。でも、やっぱり母親の物語だったし…。まずは綺麗に母親の物語を仕立てたとして、雪と雨のその後を描いた続編に期待します。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2013/03/15(金) 02:13:31|
  2. おおかみこどもの雨と雪
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