土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『PSYCHO-PASS』全22話の感想。

「なぁ、どうなんだ、狡噛。君はこのあと、僕の代わりを見つけられるのか?」
「いいや、もう二度と、ゴメンだね。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 この作品そのものがスタンドアローンコンプレックス現象そのものを体現するという皮肉な結果となってしまった。自らのオリジナリティーの不在を『攻殻機動隊』シリーズや『踊る大捜査線』シリーズといった作品を模倣することによって埋め合わせたうえ、そこから生じる作品内の無秩序や論理矛盾には無自覚なまま作品としての構築を図ってしまっている。パロディーやオマージュはアニメの得意とする手法ではあるが、それは既存の表現を下敷きにして自らの表現を付加する二重性にこそ意義を見出すべきだろう。今回は単に引用を重ね、しかも誤った解釈を行い、畢竟、無理解な引用の乱発が作品世界の崩壊を招いた。それぞれの表現を具体的に理解しようとしたところで、その安易な記号性や理念なき模倣性ゆえに徒労に終わる。この作品が作られるべき「動機」とは一体なんだったのか。作品内容が継ぎ接ぎだらけの手垢のついたパッチパークに過ぎず、もはや『攻殻機動隊』シリーズの模倣子であるという点に一義を置くのみと言わざるを得ない。これって、酷評しすぎなのかな…?w

■明るい中で食べる闇鍋

 この作品は『攻殻機動隊』シリーズをはじめとした近未来SFの要素と『踊る大捜査線』シリーズのような泥臭い刑事モノの要素を二大潮流として構成されているように見える。それに加えて、猟奇性だの、プルーストの引用だの、ダークヒーローだの、社会と異端の問題だの、能力社会や管理社会や危険社会といった各種体制の問題だの、乙女ゲームだの、あっちこっちから要素を引っ張って作品に突っ込んだ感じだった。しかも、素材の選択や取り入れる方法にルールがないのか、まるで闇鍋のようなゴッタ煮の状態になっている。ひとつひとつの素材はしっかりしているからいいんだけど、料理としては食べられたものじゃない。
 これを何も知らない状況で見たならば、それなりに楽しめるのかもしれない。でも、それぞれの元ネタがなんとなくでも想像できる状態で見ると、そんな楽しみもなくウゲッとなるだけだった。闇鍋は暗い中で食べてこそ、エンターテイメントとして成立する。にも関わらず、明るい中で闇鍋を出され、さらには、世界に名だたる料理人たちが腕によりをかけて作った料理としてそんな闇鍋を出された感じだった。残念さ倍増。
 確かに、アニメはパロディーの手法を多く使う。でも、それは自分の作品なりの文脈を用意した上で、その下敷きとして先行作品の内容を使ってこそ成り立つものだと思う。あの『銀魂』だって、さんざんパロディーをやってるけれども、しっかり自分の物語を用意している。だからこそ、元ネタを知っている人も知らない人も楽しむことができる。一世を風靡した『魔法少女まどか☆マギカ』だって楽しくみんなが見ていたけれども、その背景に『魔法少女リリカルなのは』や『ぼくらの』などの作品が組み敷かれていることは意識されない。それはパロディー的な要素を抜き取ったところで、ひとつの作品として物語が成立しているから問題ないのだと思う。
 おそらく、今回の作品はそのような要素を抜き取ったら、跡形もなくなるだろうと思う。そもそも、ひとつひとつの要素の意味合いがあっち向いたりこっち向いたりしているため、混沌としていて作品世界が崩壊している。考えてみれば、「近未来SF的な泥臭い刑事モノ」っていうのが「左利きのキャッチャーミット」みたいな根本的な矛盾を抱えていたのかもしれない。

■有機性を失った物語

 細かい部分での矛盾や突っ込みどころというのは、物語の大きな流れや意志があれば気になることはない。だけど、それが感じられないから、どうしても目立ってしまう。
 簡単な例を挙げれば、あの完璧と謳われるシビュラシステムのもとに構築された社会において、手錠というアナログな物体が存在するはずがない。ドミネーターによる迅速な罪刑の結審と執行が実現しているわけだから、そもそも逮捕という面倒な手続きは存在しないはずだろうと思う。槙島の身柄の拘束を行うために必要な道具立てだと考えれば自然かもしれないが、かと言って、あえてシステムの理念に相反するような手錠の存在は作品世界にとって好ましくないだろう。手錠の登場によって、世界観の説得力がなくなってしまう。それでも手錠を出したのは、やはり泥臭い刑事モノにおける「逮捕」という行為に引かれてしまった背景があるのだろうか。作品の後半になってから、デジタルなシビュラシステムに対するものとして、手錠とかリボルバーの拳銃といったアナログなガジェットが象徴的に登場することになる。しかし、それらは本来的にシステムが排除しているはずのものだったろう。なんとも、ちぐはぐな取り合わせとなっている。
 他にも例を挙げればキリがない。シビュラシステムが人間の脳の「集合体」であるのに、藤間幸三郎は「代表」だと言ったり「個性」を垣間見させる言動を見せたりする。完璧なシビュラシステムに頼ったがために暴徒鎮圧部隊が存在しないとあったが、一方では安易に手錠や拳銃を登場させる。シビュラシステムはシステム自身が異端と判断する免罪体質者の脳によって構成されるとあるが、それにしてもシステムは多様性を許容しない。どれも小さな矛盾を抱え、その積み重ねが作品世界の説得力を喪失させる遠因となっているように感じる。そもそも、特定の価値観にそぐわない人物を排除するという、多様性を認めないシステムそのものが生物の基本的な理念に相反するナンセンスなものであった。あまりにもSFとしての設定が破綻しているため、思考実験の場としても機能することがなかったように思う。
 どうにも、近未来的なSFのガジェットに振り回され、物語の目指すべきところや描くべきところがぼやけてしまっているように感じる。上物は整えられているように見えるが、それを支える作品の理念が存在しない。理念が存在しないために、ひとつひとつのパーツが有機的につながって意味合いを出すことがなくなっている。

■常守朱という動機なき観察者

「あなたの健康かつ強靭なサイコパスと、明晰な頭脳・判断力は、来たるべき新たな時代の市民に示す指標として、十分な理想形と言えます。そして、あなたはシビュラシステムに対し、完全に相反する、感情的反感と理論的評価を抱いており、いまなおその葛藤は継続している。そんなあなたを懐柔する手法が確立できたなら、我々は社会の統制を次の段階に進めるうえで、貴重なサンプルデータを獲得できることでしょう。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

 物語の構図は「泥臭くて感情的な刑事モノ」と「クールで理知的な近未来SF」との対立軸をはじめから前提としていたのかもしれない。前者を狡噛慎也と槙島聖護の戦いに、後者をシビュラシステムに仮託した。そして、それを監視していたのが常守朱だったのだろう。常守朱はその遵法精神から前者の二人を実際に射殺することを拒否しながら、その一方で、シビュラシステムの示す法を疑う姿勢を見せる。物語を簡略に図式化するならば、こうなるだろう。
 ただし、物語は常守朱が免罪体質者であることを隠す。いや、そうでないのかもしれないが、あんな状況でも色相が少しも濁らないことからすれば、その資質を持っていることは間違いないと思われる。この彼女の免罪体質を物語が取り上げることは、先ほどの構図からすれば不都合になってしまうのではないだろうか。もしも彼女の色相が濁り切ってしまったら、常守朱は中立的な観察者の立場を維持できなくなる。一気に「泥臭くて感情的な刑事モノ」へと話が流れ、シビュラシステムを彼女たち主人公が破壊して結末を迎えることになるだろう。
 それを回避して彼女を観察者とした理由はなんだったのか。おそらく、両者の間に立たせて葛藤させ、彼女を窓口として視聴者にも同じ問題意識を投げかけることにあったように思う。

「あんたがどうあっても、槙島を殺さないのは?」
「違法だからです。犯罪を見過ごせないからです。」
「悪人を裁けず、人を守れない法律を、なんでそうまでして守り通そうとするんだ?
「法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです。これまで、悪をにくんで、正しい生き方を探し求めてきた人々の思いが、その積み重ねが法なんです。それは、条文でもシステムでもない。誰もが心の中に抱えている、脆くてかけがえのない思いです。怒りや憎しみの力に比べたら、どうしようもなく簡単に壊れてしまうものなんです。だから、よりよい世界を作ろうとした、過去すべての人たちの祈りを、無意味にしてしまわないために。それは最後まで、頑張って守り通さなきゃいけないんです。諦めちゃいけないんです。」
「いつか、誰もがそう思うような時代がくれば、そのときはシビュラシステムなんて消えちまうだろう。潜在犯も、執行官もいなくなるだろう。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

「尊くあるべきはずの法を、なによりも貶めることはなんだかわかってる?それはね、守るに値しない法律を作り、運用することよ。人間を甘く見ないことね。私たちはいつだって、よりより社会を目指してる。いつか誰かがこの部屋の電源を落としにやって来るわ。きっと新しい道を見つけてみせる!シビュラシステム、あなたたちに未来なんてないのよ!!」
「常守朱、抗いなさい。苦悩しなさい。我々に進化をもたらす糧として。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

 しかし、結局のところ、常守朱は最後まで葛藤の結論を出さなかった。出していないくせに、シビュラの未来はないとも言う。未来はないと言っているわいりに、その根拠には最終話になって降って湧いてきた「法」の考え方を持ち出しているため、説得力もなければ具体性もない。常守朱がシビュラシステムを否定する側になったことでさえ、いつのまにかそうだったという印象を受けるくらいだ。シビュラシステムの進化にしても、この作品のSF考証が破綻して思考実験にもならないことから、意味がないように思う。
 観察者である常守朱には主体性が感じられなかったし、葛藤しているフリはしていても中身は具体性の乏しいものだった。何も判断して行動することなく、ただ観察者として存在するだけだった。動機を持たず、何も考えず、何も判断せず、何も行動せず、そんな常守朱の存在が現代人への批判だったと好意的に考えるのも無理があるだろう。彼女もまた、スタンドアローンコンプレックス現象に陥った人物だった。その意味において、彼女こそ本作の主人公と言って間違いないのかもしれない。

■槙島聖護と狡噛慎也の孤独

「いい加減、僕たちを侮辱するのは、やめてほしい。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

 むしろ槙島聖護こそ本作の主人公としたほうが良かったのではないか。彼が常守朱を前に放ったこのセリフは秀逸だった。動機を持たないまま、何も判断をしないまま、なんとなく事態に介入してくる常守朱に対する嫌悪と怒りが込められた意味深いセリフだと思う。ここでの「僕たち」とは具体的に狡噛慎也と槙島聖護を指すもので、その二人の楽しい戦いに水を差すなとの意味に受け取っておくのが穏当なところだろうか。

「ついに紛い物の正義を捨てて、本物の殺意を手に取ったか。やはり君は、僕が期待した通りの男だった。」
「そうかい。だが、俺は貴様になんの期待もしちゃいない。」
「ここまで来て、つれないことを言ってくれるなよ。」
「いい気になるな!貴様は特別な人間なんかじゃない。ただ世の中から無視されてきただけのゴミクズだ。たった一人で人の輪を外れて、つまはじきにされてきたのが恨めしいんだろう!貴様は孤独に耐えられなかっただけだ!!仲間外れは嫌だって泣き喚いているガキと変わらない!!」
「面白いことを言うなぁ。孤独だと?それは僕に限った話か。この社会に孤独でない人間など、誰がいる!?他者とのつながりが自我の基盤だった時代など、とうの昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる世界には、人の輪なんて必要ない。みんな小さな独房の中で、自分だけの安らぎに飼い馴らされているだけだ。君だってそうだろ?狡噛慎也。誰も君の正義を認めなかった。君の怒りを理解しなかった。だから君は信頼にも友情にも背を向けて、たったひとつ、自分に残された居場所さえかなぐり捨てて、ここまで来た。そんな君が、僕の孤独を笑うのか?だがね、僕はむしろ評価する。孤独を恐れない者を、孤独を武器にしてきた君を!!」
『PSYCHO-PASS』#21「血の褒賞」#22「完璧な世界」より

 ここでの狡噛慎也と槙島聖護のやりとりも良かった。この会話と二人の戦いの意味を理解するためには、ダークヒーローとスタンドアローンコンプレックス現象の二つの文脈を踏まえなければならないだろう。
 ダークヒーローは具体的には『コードギアス 反逆のルルーシュ』を想定すると理解が早いように思う。主人公は社会の仕組みやルールがあるために弱者としてのレッテルを貼られてしまい、そこで社会を敵として相手取って戦いを始める。従来のヒーローとは世の中を守る正義の味方だったが、ダークヒーローはその世の中そのものを敵とする点に特徴がある。能力主義社会の実現は世の中が決める一方的な価値体系を押し付ける側面がある。したがって、本来は認められるはずの能力が認められない場合もあり、正義の味方が守るべき弱い者を世の中のルールが作り出してしまうといった状況が見られるようになった。そこで登場したのがダークヒーローだった。
 まさしく槙島聖護はダークヒーローであろう。シビュラシステムによって規定されたルールによって社会から除外され、免罪体質者という異端としてのレッテルが貼られてしまった。それは槙島が生まれながらに持ち合わせた資質に関係なく、シビュラシステムがあったからこそ醸成された異端認定となる。そこに、シビュラシステムを破壊するための動機と正義が槙島の中に生じる余地がある。彼にとって、一方的に価値観を押し付けてくるシビュラシステムは悪にしか見えないのだろう。この関係は『コードギアス 反逆のルルーシュ』におけるルルーシュとブリタニアの関係性と酷似している。
 スタンドアローンコンプレックス現象(以下、略称して「S.A.C.現象」と表記します)は『攻殻機動隊S.A.C.』に登場する術語のひとつ。直訳すれば、「孤の複合体」となる。動機や意志や個性や人格を持たない「孤」がその孤独感に耐えられず、既に確立されている他者のそれを模倣して自我の代替とする行為を指す。もとより動機や意志や個性や人格は「個」に由来する特有のものを指すが、なぜか複数人が同一のそれを共有する結果が導かれる。この動機や意志や個性や人格の不在に端を発し、他者のそれを自身のそれと錯覚して幻想的とも言える個性が確立されるまでの一連の現象をS.A.C.現象と呼ぶ。
 ここで彼ら二人が言っている「孤独」とは明らかに『攻殻機動隊S.A.C.』に登場するS.A.C.現象を踏まえた表現だと言える。槙島の言う「紛い物の正義」とは他者から与えられた動機や意志のことを指しており、「本物の殺意」とは自らの内発的な欲求に基づく自我に根付いた動機を言うのだろう。槙島は狡噛がシビュラシステムによって事前に用意された一切のものを捨てた上で、自身と同じ社会の逸脱者となったことを歓迎している。狡噛は「孤独に耐えられなかった」と指摘するが、実際には二人とも孤独に耐性のある人物であり、そのために社会たるシビュラシステムの規範から逸脱した存在になれた。槙島が最後に指摘している「孤独を恐れない者」とはその謂いであり、狡噛慎也の正義や怒りを誰も理解しなかったというのは、シビュラシステムが彼の個人的な見解よりも社会システムとしての見解を優先したために彼を無視したことを言うのだろう。シビュラシステムから離脱した狡噛慎也は間違いなく槙島聖護と同じ身の上となり、それは槙島聖護にとって唯一無二の仲間であり敵となる。

「誰だって孤独だ。誰だって虚ろだ。もう誰も他人を必要としない。どんな才能もスペアが見つかる。どんな関係でも取り替えがきく。そんな世界に飽きていた。でも、どうしてかな。僕が君以外の誰かに殺される光景は、どうしても思い浮かばないんだ。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

 槙島聖護が殺される前に狡噛慎也に向けて言ったセリフともつながってくる。彼は唯一の理解者である狡噛慎也のほかに殺されたくなかった。ましてや、自ら動機を持つことのないシビュラシステムの手足である常守朱に殺されることだけは我慢できなかった。だからこそ、「侮辱するのは、やめてほしい」というセリフが出てきたと思われる。自分を異端と認定し、安定すれども個性を否定するたシビュラシステムの中において、狡噛は唯一の仲間となりえた。

「なぁ、どうなんだ、狡噛。君はこのあと、僕の代わりを見つけられるのか?」
「いいや、もう二度と、ゴメンだね。」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

 唯一無二の関係というのは狡噛の立場にとっても同様のことが言える。執行官としての立場を捨て、シビュラシステムから離脱した狡噛にとって、ここで槙島を殺してしまっては自分と同じ境遇の仲間がいなくなってしまう。しかし、狡噛は自らの動機に従って、槙島を殺すことを選択する。
 ある意味において、槙島聖護はシビュラシステムが生み出した存在とも言える。システムが彼を除外したからこそ、槙島はシステムに反抗する動機を獲得することができた。その彼が「代わりを見つけられるか?」と狡噛慎也に問いかけ、狡噛が嫌悪感を示したのは皮肉な返答ではないだろうか。システムが生み出した槙島を否定しながら、システム自体を肯定するかのような発言でもある。狡噛自身もシビュラシステムと同様に、槙島のことを異端として排除してしまったのだ。たとえ狡噛がシステムを離脱していたとは言え、これでは狡噛自身がシビュラの手先となってしまっている。

■攻殻機動隊の模倣子として

「君たちは永遠の存在なんだ。肉体の縛りから解放され、集合知によって磨きあげられた、最もイデアに近い魂なんだ。誰にも君たちを貶めることなどできない、君たちの尊さを壊したりはさせない。」
『PSYCHO-PASS』#05「誰も知らないあなたの顔」より

「あらゆるアバターの個性を熟知し、完全に模倣する。何者にもなりうる君の個性とはどのようなものなのか、僕はとても興味があった。だから人を貸した。力を貸した。でもね、そろそろ底が見えてきた。最後の幕引きくらい、借り物ではなく、君ならではの趣向をこらしてみてはどうだろう。何者としてもふるまうことのできる君自身が、結局のことろは何者でもなかった。君の核となる個性は無だ。からっぽだ。君には君としての顔がない。のっぺらぼうだからこそ、どのような仮面でもかぶることができたというだけだ。」
『PSYCHO-PASS』#05「誰も知らないあなたの顔」より

 この一節もまた、『攻殻機動隊S.A.C.』におけるS.A.C.現象を取り入れた内容になっていた。あるいは、「のっぺらぼう」の部分で言えば、『千と千尋の神隠し』における「顔なし」も同様の発想に基づくものと言えるだろう。どちらにせよ、先行の作品ですでに表現されたことを敷衍したに過ぎず、この作品ならではの付加内容があまり感じられないものだった。

「アンケート調査によると、全身の五割を超えるサイボーグ化には抵抗を感じると答えた方が大多数のようですが…。」
「抵抗があるという人の気持ちはわかりますよ。結局は程度の問題なんですよ。たとえば、あなた。あなたも立派なサイボーグですよ。」
「しかし、私は義手も義足も、人工臓器も使っていません。」
「なんらかの携帯情報端末を持っていますよね?」
「それは、まぁ。誰でも持っているのでは?」
「コスデバイスも。」
「もちろん。」
「そして、家にはホームオートメーションとAIセキュレタリー。」
「えぇ。」
「それらのデータが災害や事故によって一気に失われたら、あなたはどうなりますか?」
「それは…。復旧するまで、なんの仕事もできません。」
「自分の生活を、そこまで電子的な装置に委託しているのに、サイボーグではないと言っても、説得力はありませんよ。あなたにとって、携帯端末は既に第二の脳だ。違いますか?科学の歴史は、人間の身体機能の拡張、つまり、人間機械化の歴史と言い換えても差し支えない。だから、程度の問題なんです。」
『PSYCHO-PASS』#09「楽園の果実」より

 これは『攻殻機動隊』シリーズに登場する「外部記憶装置」の発想を敷衍したものと言える。たとえば、『GHOST IN THE SHELL』(押井守監督の劇場版)では人形使いが「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にしたとき、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった」と発言している。他にも外部記憶装置に関する記述は『攻殻機動隊S.A.C.』にも見られ、原作から連綿と受け継がれているモチーフとなっている。

「お笑い種だな。人間のエゴに依存しない、機会による公平な社会の運営。そう謳われていたからこそ、民衆はシビュラシステムを受け入れてきたというののに…。その実態が人間の脳の集合体である、君たちによる恣意的なものだったのか。」
「いいや、限りなく公平だとも。民衆を審判し監督している我々は、既に人類を超越した存在だ。シビュラシステムの構成員たる第一の資格は、従来の人類の規範に収まらないイレギュラーな人格の持ち主であることだ。いたずらに他者に共感することも、情に流されることもなく、人間の行動を外側の観点から俯瞰し裁定できる。そういう才能が望まれる。たとえば、この僕や、君がそうであるように。」
「ほぅ。」
「僕もね、サイコパスから犯罪係数が特定できない特殊な人間だ。おかげで、ずいぶんと孤独な思いをしたものだ。そのようなシビュラの総意をしても計り知れないパーソナリティーは免罪体質と呼ばれている。凡百の市民とは一線を画す、新たな思想と価値観の持ち主。そういう貴重な人材を見つけて取り込むことで、システムは常に思考の幅を拡張し、知性体として新たな可能性を獲得してきた。」
『PSYCHO-PASS』#17「鉄の腸」

 ここでの藤間幸三郎の発言も同様に、『攻殻機動隊S.A.C.』のS.A.C.現象に依拠する。というより、藤間幸三郎こそS.A.C.現象そのものとも言える。彼は自身の個の不在をシビュラシステムの脳と同一の個を共有することによって補っている。むしろ、他者との相違をことさらに強調して自我を確立する、『攻殻機動隊S.A.C. 2ndG.I.G.』に登場する個別主義者とよく似ている。
 ここに挙げない部分にも、攻殻機動隊からの引用と見られる表現は随所に見られる。しかし、どれもこれも元ネタを敷衍しているに過ぎず、この作品で新たな展開を見せたと思える部分は少ない。

「正義(システム)の連鎖は、終わらない―」
『PSYCHO-PASS』#22「完璧な世界」より

 最終話のラストカットで打たれたテロップがこの文言だった。これも『攻殻機動隊S.A.C. 2ndG.I.G.』#09「絶望という名の希望」における合田一人の発言「不在による憎しみの連鎖はもう止まらない。彼らは総意としての国民の意志と、自身の正義、その狭間で苦悩するだろう。」を想起させるが、これは考え過ぎかもしれない。
 ただ、問題はこの文言の中身が具体的に作品内部で描かれていたのか甚だ疑問であるという点だろう。確かに、常守朱が初めて配属された日の状況をリピートすることで、物語は循環しながら結末を迎える。また、狡噛慎也も結局はシビュラシステムの作り出した状況を否定することができず、ただただ槙島聖護を殺すことしかできなかった。そのため、シビュラシステムという倒されるべきシステムの連鎖は終わることがない。なんの解決を示さなかったのは物語の責任であり、それをなんだかカッコいいような文言で締めくくるのもどうだろうか。これもまた、常守朱と同様に現代社会に対する批判だと受け止めれば優しいだろうが…。

■ノイタミナ枠のオリジナルアニメ観

 結局のところ、ノイタミナはオリジナルアニメを作る方向性に舵を切ったわけだけど、フタを開けてみたらただ流行作品を縮小再生産するだけのことだったっていう感じがする。
 今回の作品にしても、乙女ゲーム的には常守朱が主人公でいいのかもしれないけれど物語は狡噛慎也と槙島聖護のものだったし、細かい引用の乱発も作品の本筋を曖昧にするだけだったし、何を見ればいいのかわからなかった。シビュラシステムによる管理社会の構築は『地球へ…』の「マザー」による支配を彷彿とさせるし、社会の落伍者である潜在犯を同じく逸脱者である潜在犯が取り締まる形態も『Witch Hunter ROBIN』などで魔女による魔女狩りとして既に行われているし、ほとんどが『攻殻機動隊』シリーズの受け売りだったし、そのくせ『踊る大捜査線』とかの泥臭い刑事モノをゴリゴリ押してくるし、なんだかわけがわからない。ダークヒーローの登場にしたって、もはや時代遅れでしかない。ヒーローの新しい展開として『東のエデン』で奉仕するヒーローを提示したProductionI.Gであるにも関わらず…。その『東のエデン』でさえ2009年の製作である。
 確かに、暗中模索で進めるしかないオリジナルアニメの製作が不利不安極まりないことは言うまでもない。だからこそ、原作付きが多く作られるわけだし、オリジナルアニメにしてもメディアミックスの手法を使うことが多くなる。その中で、少しでも安心しようと既に成功している作品を模倣することは、当たり前の肯定されるべき方法と言える。それにしても、あまりに模倣がひどくないだろうか。ひとつ前のノイタミナ枠オリジナルアニメである『ギルティクラウン』も『コードギアス 反逆のルルーシュ』の焼き直しでしかなかった。どうにも、石橋を叩きすぎて橋そのものを壊しているような気がする。





 たびたび狡噛慎也が訪れていた臨床心理学の元教授である雑賀譲二って…、もしかしてモデルは神山健治監督なんじゃないかな。。なんとなく似てるんだよねw至るところに攻殻機動隊の面影が見えた作品だけあって、ありえないことではないような気もする。まぁ、押井守監督っぽい人は出てこなかったけどw来期のノイタミナは『刀語』の再放送か…。迷走、、だよね。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2013/03/23(土) 02:53:13|
  2. PSYCHO-PASS
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