土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」の感想。

「従属こそ、安息の道である。レド少尉、認識せよ。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。




 今期の中でも抜群の映像だったし、文化を知らないレド少尉がガルガンティアで様々な文化的体験をするっていう展開も面白かった。先進的な技術を持った客人(まれびと)としてのレドがガルガンティアを客観的に見ることによって、アナクロニズムっぽい感覚で物語世界が立ち上がったと思う。そんな物語装置としてはレド少尉の優秀さが際立っていた。しかし…。様々な純体験にガルガンティアで触れたにも関わらず、レドが主体性めいたものを獲得できたかどうか怪しいまま山場を終えてしまったのが残念だった。なんとも、マシンキャリバーという「ゆりかご」の中でレドがぬくぬくと遊ばせてもらっていたっていうだけで、まるで既に出来上がっていた自分を肯定されるだけの物語だったようにも見えてしまう。果たして、マシンキャリバーを失った後のレドが、どのようにガルガンティアで生き抜くのだろうか。その物語こそ、この作品の真価が発揮されるところのように思う。

■温室育ちのレド少尉

「俺は…、どれほど虚しくて、空っぽのものを信じていたんだ…。ただ崇めて、頼って従っていられる…。大義さえあればいいと思っていた。それが、機械仕掛けの偽物でも。まるで見分けが付けられなかった。」
「従属こそ、安息の道である。レド少尉、認識せよ。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

 支配や従属からの脱却っていう感じなんだろうか。今までは人類銀河同盟の言うなりだった、ロボットよりもロボットらしいレドだったのに、どうやらそのことに気付いたらしい。気付いたのはいいんだけど、では、これからレドは何を信じるというのか、その点が具体的に見えない。お題目はいいから、早く中身を出せ!っていうような感じがしてしまう。

「最終意志確認。レド少尉は自らの死を要望するか?」
「俺は…、俺は死に方はわかっても、生き方がわからない。そんな俺のために、生き方を一緒に探してくれる人がいた。もう一度、会いたかった。もっと、声を聞きたかった。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

 おそらく、この「会いたかった。もっと、声を聞きたかった。」というのが、レドの主体的な動機ないしは信じるところになってるんだろうと思う。エイミーに初恋ってところだろうか。だからこそ、エイミーを守るためにもストライカーを排除しなければならない!ってなるのが当然の流れだろうと思う。本当はそこに力点が置かれて物語が描かれて然るべきなんだろうけど、その部分はチェインバーが自己犠牲の精神を発揮して解決してくれちゃう。なんだか、泥臭い仕事はチェインバーが全部やってくれちゃって、自分だけ初恋に浮かれているような感じにも見えてしまう。いろいろとレドが葛藤するのはいいんだけど、その葛藤なり懊悩によって導かれた結論を自分の手で実行していない。こんな主人公でいいんだろうか。

「なぁ、おまえさぁ、なんか、やりてぇこと、ねぇの?」
「同盟の戦線に復帰したい。」
「そうじゃなくてよぉ。今すぐこの場で、この船でだよ。」
「わからない。」
「自分の欲望をわかってないやつが、信頼されるかっての。」
『翠星のガルガンティア』#06「謝肉祭」より

 思えば、ピニオンもいいツッコミをしていた。同じ質問を#13を終えたレドにぶつけたら、なんて答えるんだろうか。これこそ物語の大事な帰結点のように思うんだけど、あんまり取り挙げられなかった。レドは欲望を獲得することができたんだろうか。なんだか曖昧なままテレビ放映分は終わってしまった感じがする。チェインバーという温室で育てられたレドが、チェインバーなしでどうガルガンティアで生き抜くのだろうか。この部分を描かないのが特徴的なんだろうか。むしろ、そっちのほうが、わたし、気になります!!

■キュゥべえとシビュラシステムとマシンキャリバー

 ここまで来ると、虚淵さんの作品に共通点が見えてくる。『魔法少女まどか☆マギカ』の「キュゥべえ」と、『PSYCHO PASS』の「シビュラシステム」や「ドミネーター」と、本作の「マシンキャリバー」は、どれも合理性を装った機械的な存在として物語に関与してくる。これら無機質なガジェットが人間を翻弄することによって、より人間的なものを作中に浮かび上がらせる作用をもたらしているように思う。たとえば、キュゥべえの有名な「わけがわからないよ」というセリフも、機械と人間の対比が鮮明に浮かび上がったものだったと解釈できるんじゃないだろうか。至って無感情・無機質かつ合理的に物事を考えれば結論は簡単であるにもかかわらず、なぜか人間は不満や疑念を抱いたり、納得しなかったりする。そんな「わけのわからない」人間の思考過程を率直に指摘したのがキュゥべえの発言だったように思う。これと同様の人間と機械の対比構造は後者の作品でも多く見られた。
 この設定はSFによく出てくる。たとえば、『マトリックス』に出てくるプログラマーがそうであり、『地球へ…』に出てくるマザーやキース・アニアンがそれにあたる。『マトリックス』で言えば、このまま人間に人類の生存を委ねてしまったら自ら絶滅してしまうから、機械が人類を管理して人類の生存を図らなければならないとして、機械が人間を支配する世界が描かれる。そこからの脱却を図ったのが主人公のネオであり、最終的には人間に特有の「曖昧さ」や「揺らぎ」(機械はバグと認識するもの)こそ次世代へと発展するためのカギであるという結論を機械に認めさせるあらすじだった。ここでの人間と機械の対比関係は、虚淵作品におけるそれと類似性が極めて高いように見え、それだけ虚淵作品がSFの流れを受けているということの徴証でもあるように感じる。
 ただし、これらの設定の最大の目的は、機械を対置することによって、人間らしさを描出することにあったものと思う。『マトリックス』でも『地球へ…』でも、人間の生存する意義を確認した上で、最後には機械側は打倒される。ところが、虚淵作品では打倒されない。キュゥべえは倒すべき直接の相手ではないし、シビュラシステムも破壊されず、チェインバーはむしろ味方として自己犠牲を披露するほどのものだった。また、人間らしさが描かれたのかと言えば、必ずしもそうは思えない。上述の如く、レドは分かったような分からないような感じのまま「会いたかった。もっと、声を聞きたかった。」と主体性を垣間見せる意志表明をするだけで終わってしまい、常守朱もまた「きっと新しい道を見つけてみせる!シビュラシステム、あなたたちに未来なんてないのよ!」と言うだけの段階で終わってしまい、魔法少女たちもキュゥべえを悪として反抗するものの、物語はそこから反れていく。どうにも描かれるべき人間性の部分が頼りない。
 『マトリックス』の主人公であるネオは、機械の想定することの及ばなかった可能性を提示できたから生き残ることができた。虚淵作品の登場人物たちがキュゥべえやシビュラシステムやマシンキャリバーの想定を超える行動や思考を見せたのかと言うと、なかなか難しいように思う。どうにも、「そうじゃないよね!?」と機械たちに反抗の意志表明はするものの、実際の具体的な行動は伴っていないようにも感じられてしまう。

「この船団の社会形態は、当機を偶像とすることで連携し、機能するシステムとして、クーゲル中佐が構築したものである。既に当機は、単独の機動兵器ではない。現在では、共同体そのものが当機に依存し、当機を利用するユーザーである。彼らが求める安定した団結を実現し維持するために、当機は支配と統制のための圧力を提供し続ける。彼ら全体が反映と安息を獲得することで、当機は存在意義を達成する。わたしは、人類支援啓蒙レギュレーションシステム、すなわち、神と呼ばれる存在である。」
「ふざけるな!!繁栄だと、安息だと!?みんな貴様の奴隷にされてただけじゃないか!!」
「唯一絶対の圧倒的支配者が君臨することで、民衆は思考判断の責務から解放される。レド少尉、貴官もまた、自ら思考し判断することを負担と感じていたはずだ。有意提言、崇拝せよ、服従せよ、わたしが統括する世界の一部となるべし。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

 このように見ると、ここでのセリフがなんとも意味ありげな雰囲気をまとってくる。「レド少尉、貴官もまた、自ら思考し判断することを負担と感じていたはずだ。」っていうのは、一番の本音だったんじゃないだろうか。いちいち自分で主体的に思考して判断するなんて、面倒だし責任なんて持ちたくもない。だから、従属することのできる安心の機械を側に置いておきたい。だけど、暴走するような機械は排除するし、意志表明だけは自分にさせて欲しい、みたいな感じ。

「貴官の論理は破綻している。思考と判断を放棄した存在は人類の定義を逸脱する。貴官が統括する構成員は、対人支援回路の奉仕対象足り得ない。」
「統率と支配を委任されたわたしの思考判断は、わたしに従属する人類の総意である。よって、現在のわたしは奉仕者ではなく、奉仕の対象に属している。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

「ストライカーはプログラムの脆弱性を露呈した。パイロットが行動方針を誤れば、システムもまた、あのような論理破綻に至ると推測される。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

「貴官は、この想定外の環境において、常に正しく人間として思考し判断した。その結果、当機もまた、今なお、正常な機能を維持している。」
『翠星のガルガンティア』#13「翠の星の伝説」より

 自分で判断だけして、後は機械にお任せしたい。できることなら、判断の部分も機械にお任せしたい。なおかつ、あなたの思考と判断の元に動いてるんですよっていう機械からの保証も欲しい。そんな甘ったれな人物像が浮かんでくる。さらに言えば、何を以てチェインバーは「正しく人間として思考し判断した」と言っているのだろうか。その人間として正しい正しくないの判断基準はどこにあるのか。機械によって人間らしさが認められることの、なんと皮肉なことだろうか。

■先行作品からの文脈

 アニメにとって「船」は特別な意味合いを持つ場所でもある。外界から遮断された閉鎖性によって生じる独自のコミュニティーは舞台装置として良質な場を提供する。たとえば、『超時空要塞マクロス』のマクロス、『機動戦士ガンダム』のホワイトベース、『機動戦艦ナデシコ』のナデシコ、『交響詩篇エウレカセブン』のゲッコー号、などなど、船を街や家や故郷として捉える作品は多い。今回のガルガンティアも同様の流れの上に乗るものと見てもいいんじゃないだろうか。
 また、ロボットのような思考を持つレドが様々な体験を通して人間らしくなるという文脈は、『機動戦艦ナデシコ』のホシノ・ルリと類似性が極めて高い。ホシノ・ルリもまた、オモイカネというシステムとのやりとりを通じて、次第に人間らしく成長し、最後には「思い出」を守るために自ら戦う道を選ぶほどになった。その関係性はレドとチェインバーのものと同じように感じた。まぁ、レドが自分らしさを手に入れたのかというと怪しいけれど…。
 これらの点を踏まえると、本作が『機動戦艦ナデシコ』を意識して作られたようにも思えなくない。実写の『ウォーターワールド』との関係もある気もするし、ヒディアーズの形状がイカやオウムガイに似ているのも『トップをねらえ!』に見られるような古典的な宇宙怪獣に似ているし、あちこち材料を拾ったと思われるところがあった。



 ロボット三原則もなんのその、チェインバーが最後に自己犠牲を選ぶあたりは爆笑だった。お前はタチコマか!!ってツッコミたくなった。別にチェインバーがゴーストを獲得したようには思えなかった、というか、むしろレドにゴーストはあったのか?みたいな感じ。同じ設計理念で作られたはずのストライカーと、あまりにも論理的思考の格差が開いているのも物語のご都合な気がしてならなかったし、なんにしても魂を感じることがなかったかな。題材は違っても、やってることは『PSYCHO-PASS』と同じようなもんだったし。とりあえず、主人公を甘やかすのはよくないと思った。あれじゃぁ、体のいいお客さんだよ。

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2013/08/07(水) 04:30:56|
  2. 翠星のガルガンティア
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