土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

「木星蜥蜴」の象徴する「宇宙アニメ」の画期―「宇宙アニメ」の系譜における『機動戦艦ナデシコ』の位置付けと意義―

「思いこんだら一直線。いっそ、地球に見切りをつけて、信じてみた木星の正義。でも、それは私たちの正義ではなかった。熱血、友情、努力、人の数だけ正義はあった。」
『機動戦艦ナデシコ』#25「『私らしく』自分らしく」より

 この記事は以前に『トカゲ野郎の「土星蜥蜴」発言―『機動戦艦ナデシコ』による画期―』と題して記載したものを改稿したものです。より木星蜥蜴の存在に焦点をあてるように書き直しました。

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。

--------------------------------------------------------------

 宇宙を舞台にしたアニメは連綿として現在も数多く作り続けられている。その系譜に位置付けられるものは、古いもので『宇宙戦艦ヤマト』(1974)や『機動戦士ガンダム』(1979)が著名なものとして挙げられよう。そして、これらはアニメ以外において近未来を舞台とした「SF」というジャンルで括られる映画・小説に端を発すると見てよいと考えられる。まずは、これら「宇宙」という虚構空間を舞台としながら物語を展開する作品を「宇宙アニメ」として定義付け(注1)、本稿では宇宙アニメの系譜を整理するとともに、宇宙アニメ史上において『機動戦艦ナデシコ』(1996)や『機動戦艦ナデシコ 劇場版 The Prince of Darkness』(1998)がひとつの画期を成したと考えられる点について言及したい。
 まず、論をはじめるにあたって、「宇宙アニメ」を取り上げる動機について述べたい。それは第一に、今なお連綿として宇宙アニメが作られ続けていることに加え、他のジャンルに比べて前作との関連性や影響関係が強いように感じられるためである。たとえば、『機動戦艦ナデシコ』(1996)は『宇宙戦艦ヤマト』の「戦艦」と『機動戦士ガンダム』の「機動」を合わせてタイトルに取り入れており、その内容も両作を踏まえたものとなっている。また、ナデシコに登場する「ゲキ・ガンガー3」という劇中劇は明らかにスーパーロボットアニメを意識したものとなっている。他にも、『超時空要塞マクロス』(1982)や『トップをねらえ!』(1988)は宇宙アニメの先蹤として強い存在感を示していることは、後続の作品に取り入れられた設定なりガジェットを見れば明らかであろう。しかし、それぞれ同じく「宇宙」を舞台としている反面、その作品の目指している世界観や精神性・思想性は大きく異なっている。したがって、宇宙アニメを比較することによって、それぞれの作られた時代ごとの文化的志向性や思想の移り変わりを読み取ることができるものと考えられる。「宇宙」という虚構性を多分に含んだ共同幻想空間ないしは実験領域を舞台に、どのような世界観が展開されるのか、その推移や変遷を辿ることをひとつの視点として、各時代の潮流の反映を垣間見たいと思う。

   1、「木星蜥蜴」の存在とその意味合い

 木星蜥蜴とは、簡単に言えば「宇宙からの侵略者」を指す。作品の冒頭では木星蜥蜴と呼ばれる「ジョロ」や「バッタ」といった無人機械兵器が登場し、地球が不条理にも侵略されている様子が描かれる(#01-8'18''//#01-18'21''//#01-21'07''…以下、関連のある動画の話数と時間位置を適宜示していく)。この『機動戦艦ナデシコ』のおおまかな世界設定とあらすじを言えば、木星蜥蜴はすでに地球人の入植していた火星を占領しており、その火星に取り残された地球人を助けるために民間の「ネルガル重工」という企業が戦艦ナデシコを火星に派遣するという物語のはじまりを持つ。そして、実は地球や火星を侵略している木星蜥蜴が、かつて地球から木星に放逐された地球人であることが判明(#16-10'56'')し、この戦争を終わらせるためにナデシコが奔走するという内容を本筋として捉えることができる。
 基本的には『宇宙戦艦ヤマト』に見られるような宇宙を舞台とするオーバーテクノロジーの使用(注2) と、『機動戦士ガンダム』において「ホワイトベース」を舞台として展開される人間模様(注3) を取り入れて、ひとつの作品として統合させた様相を呈している。他にも『トップをねらえ!』や『超時空要塞マクロス』を踏まえた内容表現も見られ、『ゲッターロボ』(1974)や『マジンガーZ』(1972)といったスーパーロボットアニメとの関連(注4)も指摘することができ、この『機動戦艦ナデシコ』が旧来の宇宙アニメ・ロボットアニメを土台にして作られたものであることは言を俟たない。また、そういった作品のみならずラブコメやパロディーといった要素も取り入れつつ物語が進められている。そして、本稿の主題として掲げている「木星蜥蜴」の原型は『トップをねらえ!』に求めることができ、それが他の宇宙アニメにも共有される侵略者像として造形されている点には興味深い特色を見ることができる。
 そもそも、『トップをねらえ!』では地球に対する侵略者は「宇宙怪獣」と呼ばれる正体不明の「敵」として描かれる(#06-12'25'')。その姿はイカを模した形をしており、意志を持たずに躊躇なく倒されるべき「絶対的な敵」として認識されている点には留意したい。また、このようなモチーフはその後の作品でもしばしば見られるものであり、『無限のリヴァイアス』の宇宙生物(#24-2'47'')や『ヴァンドレッド』(2000)の侵略兵器(#25-15'10'')や『交響詩篇エウレカセブン』(2005)のコーラリアン(#37-9'20''//#37-13'08'')や『マクロスフロンティア』(2008)のバジュラ(#01-21'50'')など類例は多い。おおよそ、これらの例も『トップをねらえ!』における宇宙怪獣と同様の性質を持っている。したがって、宇宙アニメの典型としての地球や人類を侵略する「正体不明」の「敵」とは、その絶対悪の性質から常に「無条件で倒されるべき存在」として描かれていると見ることができる。
 しかし、『機動戦艦ナデシコ』で描かれる「木星蜥蜴」という「侵略者」は必ずしもこの性質を受け継いでいるとは言えない。むしろ、この設定を生かして発展させた、巧妙な性格が付与されていると見るべきであろう。先述したように、木星蜥蜴の正体とは地球を放逐された元地球人であった。作品の序盤では無人兵器という「正体不明」で「無条件で倒されるべき存在」を敵として想定していたために躊躇なく戦争が行われていたが、後半になり正体が自分たちと同じ人間であるとわかった段階で戦争の大義に揺らぎが生じることとなる。言い換えれば、木星蜥蜴は絶対悪とは言えない存在へと物語の進展とともに認識の転換が行われたことになり、そこには従来の侵略者像を巧みに利用した緻密な設定を読み取ることができる。木星蜥蜴とは、従来の宇宙アニメが作り上げてきた絶対悪としての侵略者像を無人兵器によって継承しつつ、それが元地球人による地球への復讐と帰還行為を兼ねた絶対的な悪とは言い切れない背景を持った二面的な存在であることが理解される。そして、それは『マジンガーZ』をはじめとするロボットアニメの持つ、勧善懲悪的な「正義の味方」と「倒されるべき悪」という構造を覆す作用を作品にもたらしたと言うこともできるだろう。

   2、「みんなの正義」から「人それぞれの正義」へ

 この作品では「正義」の捉え方を様々な場面で前面に押し出している。まずは、それぞれの例を次に掲出し、検討を進めたい。

①「地球に迫る、木星蜥蜴!パンチでブゥ、ちょちょいのちょいよ~!みんなの地球、みんなで守ろう!政府公報です。」(#01-8'19'')
②「地球の自然を、緑の地球を、俺達が守る!ゲキガン・パ~ンチ!」(#16-14'45'')
③「心がむなしいぜ…。地球人にも俺たちと同じ愛があれば…。」(#16-15'15'')
④「違うの、アキトさん…。攻撃を止めて!」
「この人の名誉のために言っておきます。私たちは人質じゃない!」
「みんなだまされていたんですよ?この人たちは…」
「人間なんだろ?月を追放された…。」
「そこをどいて下さい!私たちの目的は、あくまで相転位炉式戦艦。」
「うるさい!ナデシコは俺が守る!」
「そんな昔の戦争を引きずって…。」
「君はわかってない!これはもう、僕達の戦争なんだよ!」(#16-16'43'')
⑤「正義って最大公約数の利益。歴史とは人の綴った都合のいい過去帳。仲良きことは素晴らしきこと、とは行かないようで…。ホント、横槍だらけ。葬り去られる善意を捨てて、私たちは艦を捨てた。」(#23-0'00'')
⑥「思いこんだら一直線。いっそ、地球に見切りをつけて、信じてみた木星の正義。でも、それは私たちの正義ではなかった。熱血、友情、努力、人の数だけ正義はあった。」(#25-0'00'')
⑦「世のため、人のため、戦争をなくす?偉いよ、君たちは!みんな、世のため、人のため、国のため、地球のため、そんな考え、虫酸が走るんだよ!」(#25-17'36'')

 これらの例から見られるように、『機動戦艦ナデシコ』で主張される「正義」とは「人それぞれの正義」であって、決して「みんなの正義」ではない。それは、劇中劇である「ゲキガンガー3」との対比の中で意識的に表現され、従来のアニメが提示してきた絶対的な正義と悪の戦いとの決別を演出している。たとえば、例の①~③で示されるように、「倒されるべき存在」としての「敵」を目の前にして、「正義の味方」が戦争の大義を得るという設定を読み取ることができる。しかし、これらは物語の進展とともに否定されることになる。木星蜥蜴の正体が露見したことによって、「正義」と「戦争の大義」の正統性への疑問を投げかけなければならなくなる。その決定的な転換点が例④で示した場面であり、⑤~⑦の例によって『機動戦艦ナデシコ』の提示する「正義」の認識が明確になる。
 そして、これらの「正義」の転換を演出する下敷きとしては、『機動戦士ガンダム』の描いた人間同士の戦いが挙げられる。それまでのロボットアニメが「倒されるべき存在」として怪獣や正体不明の機械といった相手を選択していたのに対し、『機動戦士ガンダム』では人間同士の戦争が描かれた。言い換えれば、このアニメ史上の転換を『機動戦艦ナデシコ』が作中において意図的に再構築させたと見ることもできよう。
 従来は大衆に共有される「みんなの正義」によって「悪」の侵略者を打ち倒すことが「正義の味方」に与えられる「大義」であった。それは「みんなのため」の戦いであって、その「正義」は誰しもが疑いなく共有できるものだった。しかし、戦う相手も同じ人間である場合には「みんなのため」という道理が通用しなくなってしまう。相手も人間であるからには相手にも何かしら目的や考えがあり、それが相手の「正義」となるためである。したがって、それを否定するには「みんなのため」という大義を捨てなければならない。そこで、主人公のテンカワ・アキトには「僕達の戦争なんだよ」と戦争と自分のかかわりを主体的に示させ、ホシノ・ルリには「正義は人の数だけある」と認めさせることになる。これが『機動戦艦ナデシコ』の示した、新たな「正義」の観念と言えるだろう。つまり、「木星蜥蜴」という言葉には「悪」たる侵略者の意味合いが表象される反面、同時に認められるべき「正義」をもって行動する「人間」であることもその意味合いに内包される。

   3、登場人物のキャラクターに見る画期

 最後に、これら木星蜥蜴との関わりから正義の転換に重要な視点を与える登場人物のキャラクターを論じてまとめたい。この登場人物が木星蜥蜴との戦いを経て成長していく過程によって、正義の転換が語られることは言うまでもない。はじめは戦争への参加にも何ら逡巡を見せないが、木星蜥蜴の正体が判明した時点で相手を殺すことの躊躇が生まれるようになる。この躊躇を覆すほどの主体的な戦争への参加意義を見出した過程は、先の例④に見られる通りである。
 しかし、その過程で「みんなの正義」が「人それぞれの正義」へと還元される中、同時に登場人物のキャラクターにも『機動戦艦ナデシコ』の示した画期を読み取ることができる。その具体的な例として、主人公のテンカワ・アキトとオペレーターのホシノ・ルリの二人を取り上げて論を進めたい。
 まず、テンカワ・アキトに関して言えば、『機動戦士ガンダム』の主人公であるアムロ・レイや『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の主人公である碇シンジに見られる「ヒーローになりきれない主人公」を下敷きとしたキャラクター設定が読み取れる。(注5)ここでいう「ヒーロー」とは旧来のロボットアニメが示す「みんなの正義」を背景に悪と戦う「正義の味方」を指す。しかし、アムロ・レイや碇シンジにこういった「正義の味方」としての資質はない。彼らは自らの主体的な問題として戦いへの参加に悩み、特に誰のためでもなく「自分の戦い」として戦争を位置付けるところに画期があると考えられる。そして、テンカワ・アキトもその系譜に位置付けるべき主人公であり、彼もまた木星蜥蜴との戦いを通して最終的には「僕達の戦争だ」という主体性の発露を導いている。
 そして、ホシノ・ルリには別の視点から与えられる画期を読み取ることができる。彼女は遺伝子操作によって生み出され、機動戦艦ナデシコのオペレーティングシステムである「思兼(オモイカネ)」とのコンタクトをナノマシンの作用によって円滑に進める能力を与えられている。身体的な特徴としても「金色の瞳」をしており、それは同様に遺伝子操作によって生まれたラピス・ラズリにも見られるものとして劇場版で描かれる。テレビアニメ版の第一話では彼女に十一歳の年齢設定が与えられ、基本的には彼女一人の操作によってナデシコのシステムが統括されている事実は、若さに釣り合わない「異能者」として描かれている。それと同時に、何事に対しても無表情・無感動の人間としても設定されており、それはナデシコのクルーの間でも共有された認識だったことが「ルリルリが笑ってる…」(#23-12'35'')という驚きをもった発言によって理解される。序盤では他のナデシコクルーと一線を引いた場所でしか関わりを持つことができず、それは彼女にとって理解のできない非合理な行動ばかりするクルーを客観的に捉えた「バカばっか」という口癖によって表現されていた。
 こういった設定が与えられている彼女は物語の展開とともに「人間らしさ」を獲得しながら成長していくことになる。その成長の過程を示す発言を次に例示する。

①「ナデシコは君らの船だ。怒りも憎しみも愛も、すべて君達だけのものだ。言葉は何の意味もない…。」(#07-18'30'')
②「昔、ナデシコを君たちの艦だって言ってた人がいました。今、そんな気持ちしてます。この艦は私たちの艦です。」(#23-12'38'')
③「私は反対です。遺跡を壊せば歴史は変わる。戦争は起きない。すべてチャラ。でも、大切なものも壊してしまうじゃないですか。(中略)私の大切なもの、このナデシコでの一年間の生活。その思い出が私のすべてです。与えられた記憶でなく、自分で勝ち取った記憶。それがすべてです。チャラになんかできません。艦長、あなたにとっての大事なものって、いったい、なんですか?」(#26-14'36'')

 ここで示した①の例はフクベ・ジン提督の発言であるが、これを前提としてホシノ・ルリの成長が描かれる。②と③で明らかなように、彼女は「無表情・無感動」であったものが自らの意志によって積極的に他者と関わりを持とうとするようになる。そこには作品を一貫して「ナデシコ」という小さな虚構のコミュニティーを舞台に、現実で想定される様々な人間関係を演出しようとする狙い背景にあると考えられる。つまり、ホシノ・ルリは「ナデシコ」という空間での生活を通して、他者との関係性を身に付けるに至った。ここでの「宇宙を航行する船の中」という仕切られた空間は「コンパクトなコミュニティー」という舞台を演出しており、その閉じられた環境で種々の人間関係を提示する方法を用いてホシノ・ルリの成長が描写されていると言える。これは、『機動戦士ガンダム』での「ホワイトベース」に端を発する設定 だろう。『機動戦艦ナデシコ』では『機動戦士ガンダム』の示した設定に加えて、ホシノ・ルリというキャラクターを用いることによって、そこで展開される人間関係を客観視するとともに人間関係のありようを浮き彫りにする作用をもたらしている。
 言い換えれば、ある意味では「人間」ではない存在が「人間」を客観視して獲得される視点がそこには内包されており、一般的な環境の中で育ったわけではない特別な存在である彼女を配置することによって、単なる人間関係のありようから一種の普遍的な性質を視聴者に提示する作用が働いていると考えられる。彼女のような存在が作中で精神的な成長を見せることによって、ひいては作者の狙いを的確に伝える役割を果たしているとも言えよう。
 これら二人の登場人物を通して見られることは、『機動戦艦ナデシコ』が従来のアニメの提示した内容を踏襲しながら、その変遷を作中にて意識的に再構築していると考えられることだ。ここまで確認してきた「正義」の観念に関わる転換や「ヒーローになりきれない主人公」という設定、加えてホシノ・ルリという客観的な視点の導入は宇宙アニメにおいて大きな転換点を示すものと考える。さらに、こういった画期が後の作品においても踏襲され続ける(注6)ことは、それだけ『機動戦艦ナデシコ』が宇宙アニメの画期として大きな存在感を示している傍証となっていると言えるだろう。

   4、まとめ

 以上、ここまで述べてきたことを概括すれば、『機動戦艦ナデシコ』の画期の本質は登場人物それぞれの獲得した「らしさ」と言われるような「個人」の尊重に求めることができるのではないだろうか。「正義」の観念にしても、それは従来の「みんなの正義」から「人それぞれの正義」へと個人的な意味合いへと変貌を遂げている。また、登場人物の描き方にしても、自らの主体性によって戦争との関わり方を見出す点や、他者との積極的な関わりを身に付けていく点などは、それぞれが「らしさ」を獲得したことによって得られるものだろう。それまでのアニメが多く悪を退治する英雄伝的な描き方を主流としていたのに対し、主人公の苦悩や煩悶といった内面に差し迫った表現を多く取り入れたことはひとつの転換と見てよい。そして、その転換は『機動戦士ガンダム』などによってもたらされたものであり、それを『機動戦艦ナデシコ』が意図的に作中で再構築させたものと理解できる。
 『機動戦艦ナデシコ』の宇宙アニメにおける画期とは、それまでのアニメの系譜を意識しながら、その変遷過程を作中で示した点にある。それは劇中劇「ゲキガンガー3」によって象徴的に表され、あるいは木星蜥蜴という「悪」と「正義」の二面性を持った侵略者の存在によって理解されるだろう。この作品が宇宙アニメの系譜において大きな転換点を作ったというわけではないが、その転換を巧妙なシナリオ構成によって意識的に再構築・演出した点には評価されるべき点があるものと考える。



(脚注)

1、ここでは「宇宙という虚構空間を舞台としながら物語を展開する作品」を「宇宙アニメ」として仮に定義した。この定義は曖昧で簡略に過ぎると思われるが、論を進めるうえで必要となるため便宜的に定めた。宇宙アニメとは言え、その内容は非常に多岐に亙っており、一括りにすることは本来的に難しいことは承知の上での定義である。しばしば、「SF」や「ロボット」といった概念とともに語られることもあり、他にも「熱血」や「学園物」や「社会性」などといった要素も介在する。その作品郡は多方面に内容を広げており、一概に定義付けることはむしろ意味を持たないかもしれない。

2、戦艦ナデシコの主砲としている「グラビティーブラスト」は戦艦ヤマトの「波動砲」を想起させるものであり、その流線型の機体もひとつの系譜を意識させるものと言える。

3、『機動戦士ガンダム』(1979)では「ホワイトベース」という小さなコミュニティーにおいて、主人公のアムロ・レイや艦長のブライト・ノアといった登場人物が互いに影響しながら人間として成長していく様が描かれる。この「戦艦」という閉じられた環境において「戦争」という極限の状況を乗組員がどのように乗り越えていくかという設定は、後続の作品でも頻繁に用いられるひとつの重要な世界設定となっている。たとえば、『交響詩篇エウレカセブン』(2005)の「月光号」はその典型であり、さらにはこの設定を応用・発展はせた『無限のリヴァイアス』(1999)における少年少女たちの作り上げる「社会」も、その一例と言える。

4、それは主に劇中劇として用いられた「ゲキガンガー3」というアニメに顕著に表れている。その内容はスーパーロボットアニメの典型であり、男性三人がロボットに乗って悪と戦うシナリオを持つ。ここでの「正義」は誰しもが求める「みんなの正義」であり、決して悪を打ち倒すことに躊躇を見せることがない。

5、もう一点、これらの主人公に共通して見られる特徴として、特殊能力を持たないことが挙げられる。彼らは単なる一般人であり、「正義の味方」と呼ばれる存在に特有の「人より秀でた能力」を持っていない。偶然にもガンダムやエヴァンゲリオンやエステバリスといった決戦兵器に搭乗することになり、それが彼らを主人公たらしめる要素となる。したがって、彼らの主人公としての資格は個人的な能力ではなく決戦兵器との出会いに求めることができる。ただし、アムロ・レイに関しては後にニュータイプという特殊性を獲得するが、これは物語の序盤においては機能していないため、系譜としては濫觴に位置付けられるものと考える。

6、このホシノ・ルリのような「作られた人間」という設定は、後続の作品において多く採用されるものである。たとえば、『ジーンシャフト』(2001)のベアトリーチェ・ラティオ、『交響詩篇エウレカセブン』(2005)のエウレカ、『地球へ…』(2007)のキース・アニアン、『天元突破グレンラガン』(2007)のニア・テッペリンなどが代表的な例として挙げられる。
  1. 2009/08/11(火) 12:58:45|
  2. アニメ研究
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

コメント

<%template_post\comment>


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://lizardofsuturn.blog40.fc2.com/tb.php/90-bc53bce1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。