土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

『BLOOD+』全50話の感想。

「サヤ、戦って…。」
『BLOOD+』より、ハジのサヤに対するセリフ。

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


--------------------------------------------------------------

 ぷはぁ~、50話見終わった☆やっぱり4クールは長いね…。久しぶりに旧作を見ていたので、他作品の感想もしばらく控えめな感じでした。いやぁ、アニメ漬けの日々を送るってのは背徳感ありまくりですねwあくせく働く世の中の人に対しても、アニメを作っている側に方々に対しても。享受するだけってのは、いささか負い目を感じます。いやいや、これは文化的所産の共有行動なのであり、有意義なものなのだ!!ww
 うん、正直言って、星は二つです。。アニメ脳を持つ人間としては、どうしても『十二国記』(アニメ2002:原作1991)、『喰霊-零-』(アニメ2008:原作2005)、『Witch Hunter ROBIN』(アニメ2002)、『バッカーノ!』(アニメ2007:原作2003)なんかと重ねてしまって、オリジナリティーに欠けるようにも思った。他にも、『オペラ座の怪人』や『サロメ』といった作品からの影響も見られて、いろんな作品の核になるシチュエーションをごった煮にしたように感じた。それに、だからこそ演出や脚本の面でも劇的な展開に持っていこうとするあまりに強引だったり無理筋だったりする設定に陥ってるのも残念だった。第一、主人公をはじめとしたキャラクターの設定も煮詰まっていないというか、一貫した性格付けが行われていないようにも思えて、なかなか好きになれなかったかな。そういった性格や感情に「揺らぎ」を持つっていうのも、この作品の描こうとした「人間」らしさの表れなのかもしれないけどwそれに、50話っていう長さもネックだったのかなぁ…。ベトナム編って必要だったの?26話に凝縮して構成すれば良作になっていたかもしれない、、、のかな?
 ただし、主人公側のキャラクターや話の本筋はさておき、主人公たちに対するディーバ側のシュバリエたちはかなりよかった。カールの偏愛と執着、ソロモンの純愛、ジェームズの狂気と復讐、アンシェルの権力欲と真実への探究心、ネイサンの狡猾さと観察者としての冷静さ…。主人公たちの心情よりも、こっちのほうが上手に描かれていたんじゃないのかな?っていうか、人間ではない彼らシュバリエのほうをよっぽど人間らしく描いているところに、この作品の本質とか「らしさ」っていうのが出ていたように思うww
 だから、結局は場面ごとには「お~」って思わせるような秀逸なものもあったけど、作品全体としては二つ星どまり。唯一、と言ってはいい過ぎだけど、「人間」とは何かっていう定義に関する考察対象として、『攻殻機動隊』で描かれる人形と人間の境目がどこにあるのかっていう試みと合わせて、興味深い点はあると思う。
 あとで「ひとことアニメ便覧」にも追加しておきます。さぁ~て、50話分の感想を一気に書き上げますよ~っと。超長くなりますよ~っと。

■「人間」の定義と「血」における「種(あるいは血統)」と「個」の観念

 この作品で一貫して描かれたことは「種を超えたつながり」だったわけです。もともと沖縄でジョージのもとに育てられたサヤ・カイ・リクの三人は血のつながりを持たなかったわけですし、もっとも典型的なものとしてはソロモンがサヤを愛したこともありました。これは、ディーバのシュバリエという血統を捨てて「個」としてのソロモンの心情が描かれていたわけですから、血筋を否定した関係性の提示と言えます。カイとシフとの関係もそのひとつで、特にイレーヌとの関わりは種を超えたつながりを表現したものとして印象に残るものでした。
 そして、もう一点。サヤは翼手の女王でありながら、人間らしくあろうとする性格を与えられていました。しかも、最後まで翼手の資質と人間の性格との間で葛藤させるようだから、よっぽど主要なテーマにしたかったんでしょうか。それに加えて、ディーバ側のシュバリエたちも翼手でありながら人間らいい感情の表れが強く描かれていました。
 これを言い換えれば、「翼手という知能を持った人間に擬態することのできる存在=人間に近しい存在」を登場させることによって、「人間」という言葉によって括られる現象とは何かといった問題提起が行われたとも読み取れます。その象徴的な行為が翼手を殺すサヤという設定。彼女は翼手の女王ですから、同族殺しになります。この矛盾こそが、「人間」とは何か、「種」とは何かといった問題を指摘する行為と言えるのではないでしょうか。先の「種」と「個」の対比と合わせて、これは興味深い思考実験なんじゃないのかな?
 たとえば、身近な例で言い換えれば、よくペットとしての「犬」に「人間らしさ」を求めることがあるんじゃないのかな。彼ら犬は人間じゃありませんwでも、飼い主が悲しい気持ちになっているときに犬がペロペロとなめてきたら、人間は彼らが慰めてくれているんだと幻想を抱くわけです。。あるいは、ある人には懐いても、ある人には吠えるなんていうと、犬が人を見分けて好き嫌いしているんだねと感情を読み取ることもあるんじゃない?要は、犬を人間に「見立て」て感情を持っているものとして「幻想」を押し当てているとも言えます。これは、子供が欲しがる人形にも言えることで、その点、『攻殻機動隊』の原作や押井監督の『イノセンス』で指摘がありました。けど、ペットも人形も人間の脅威にはなりえない。。翼手の中でもシュバリエや女王は実際に人間としての感情も持っており、人間との境目は超人的な身体能力を持つところだけとなります。だから、翼手はペットや人形とは違って人間の脅威となるわけで、それは『攻殻機動隊』で描かれるガイノイドの暴走にも共通するものであり、タチコマたちもわざと人間に似せないで作られるロボットの性質について言及している場面もありました。
 この作品で描かれる翼手は身体的には人間以上の存在であり、なおかつ「人間」としてコミュニケーションを取ることもできる存在でした。そして、ソロモンやカイやシフを通して種を超えた理解ある共存を描き、その反面、サヤには同族殺しをやらせるわけです。結局、ソロモンが#47なんかで言うように作品としては「種」を否定して「個」による関係性へと回帰させるわけですが、同時に、それを裏返せば「種」は異なっても「人間」的な要素を保有することがあるという現象を提示したことにもなります。つまり、「人間」という言葉が内包する現象は単に「種」としての「ヒト」を指すのではなく、その要素は身体的な特徴に関係なく、互いに会話を行いながら感情のやり取りを行うことのできる点に還元することもできるのではないでしょうか。この作品は「人間」という「種」のくくりの無効性を指摘しながら、結局は「個」が関係性を決定付ける要因となることを、サヤという主人公のみならずソロモンやカイやシフといった登場人物たちによって具体的に示したとも読み取れるのではないでしょうか。最終話ではディーバの子供たちをカイが育ている場面も描かれているわけですしw『BLOOD+』という「種族」の表象となる「血」を冠しておきながら、導かれる結論が「個」への回帰である点は少し皮肉めいた感じ。

■異能者と人間社会のかかわり

 そして、「人間」に関してはもう一点。彼ら翼手を「人間」として扱うならば、彼らは「異能者」の部類に入ることになります。勝手に異能者とか名付けてますけど、これはアニメでもしばしばヒーローは特殊能力を持つことによって主人公としての資格なり資質が与えられることがあります。具体的に言えば、魔法を使ったり、忍術を使ったり、伝説の剣を受け継いだり、ヒーローのコスチュームに変身する能力を持っていたり…。人間なんだけど、人間らしからぬ超越した能力を有する人々のことを「異能者」と仮に括っちゃいましたw
 サヤは異能者でありながら、それを隠しながらも人間社会に溶け込もうとしたわけです。先の「人間」の定義にも関わるのですが、「一般的」な「人間」ってどう考えればいいんでしょうか。異能者と一括りに言っても、たとえばルービックキューブを10秒で解くことができるってのも異能と言えなくもないわけです。他にも、身体的にハンディキャップを抱える場合だって異能と言えるし、実は現実社会の身近にも異能者はあふれているとも言えます。
 そして、ほぼ例外なく異能者には「畏怖」の念が付きまといます。他者からすれば、自分と同じ「人間」でありながら、自分にない能力を持っているんですから、それは脅威でもあり「自分と違う存在」としての認知を生み出すことにもつながります。そこで、異能者は周囲からいじめられることもあるし、逆に崇められることもある。
 こう考えると、「能力」に関係する身体的な部分にも「人間」をどう定義すればいいのかっていう問題が出ますよね。。同じ人間であっても、それぞれに能力は異なるわけですから。さっきは中身に関して「人間」的な要素は「種」ではなく「個」が決定するんだという読み取りをしましたけど、今回も「種」ではなく「個」へと帰着しそうです。でも、そうなると、「人間」っていう定義が本当に意味をなさない。それこそ、「人間」っていう言葉がどれだけ幻想的な言葉であるのかっていうのを強調しているかのようです。人間は「社会的な動物」であって、他者との共存集団として社会を形成しますけど、それも単に同族として「人間」が「群れ」を作っているのではなく、そもそも異能者との共存を前提として「個」を主体とする集団なんだと考えたほうがいいんでしょうか。
 ここまで来ると、「人間」とか「同族」といった幻想的な観念が、どれだけ現実社会において差別的な作用を持っているのかがわかりますよね。そもそも、こういった大枠での「括り」作用を持つ言葉が個人のラベリングを行うことこそ差別の本質になるんでしょうけど、そんなことはどうでもいい?wとりあえず、自分はこの作品では「個」への回帰を全体の流れにおける最終的な着地点に持ってきたという読みを提示したいってだけです。あんまり、こういった生々しい話って苦手なんですよね(^_^;)ジェンダーしかり、民族しかり、差別しかり…。フィクションのひとつの効用は、こういった生々しい話を虚構の中でそれとなく再現するところにあるから、仕方ないんですけどね。。。

■サヤとカイとリクとハジ

 さて、ここからは作品の具体的な内容に即した話になります。しかも、かなりアンチっぽいことになるかな…wだって、キャラ設定がゆるいんだもん。。。

 まず、主人公のサヤ。いやぁ、煮え切らない!!ww最終話近くではソロモンに対して「甘い夢は見ない!」なんて断言しておきながら、カイとの関係性を捨てきれずにいるっていうのは、どうも納得がいかない。だって、サヤが近くにいるからカイをはじめとする周囲の人間にまで危害が及ぶわけで、だからこそ一度は彼らの前から姿を消したんじゃなかったの?それなのに、やっぱりカイとの関係を振り切らずに近くにいるっていう中途半端な決意のもと、ディーバとの戦いへなだれ込んだってかたちに。#38で「私は一人だよ」なんて口では言っておきながら、実際にはカイだのハジだのと周りに人がいっぱいいる矛盾が最後まで解けなかった。彼らを傷つけたくないなら離れればいいのに、いつまでも離れずに甘えちゃうサヤってのがいけ好かなかったwただし、カイたちは自分の意志でサヤに近付いていたわけで、それをサヤが一方的に否定するっていうのも確かに理不尽な話ではある。だけど、やっぱりサヤ自身がモヤモヤと中途半端な態度を取っているのはダメでしょ。。どっちかにしなさい!!w
 逆に考えたとしても、カイやハジとの関係性を否定してしまったら、戦う理由がなくなっちゃうんじゃないのかな?サヤにとってはディーバを解き放ってしまったことに対する自責の念があるってだけで、そのディーバと争う理由がなくなるかもしれなかったソロモンとの交渉においてもその可能性を否定しちゃったんですよね。。結局、今のサヤがディーバと戦う理由っていうのは自分が大切に思っているカイたちを守りたいっていうことなんだよね?だったら、カイたちとの関係を否定しちゃったらダメじゃんww
 結局、煮え切らない!!しかも、動物園に行った際に自分が翼手であることを受け入れておきながら、最後まで割り切ることなく人間と翼手の間を行ったりきたり。本当に優柔不断な主人公でしたwそれと、赤い楯の本部を自爆させた後の一年でどんな心境の変化があったのかも一切描かれずに省略されてしまったのも残念。声変わりまでしちゃって、最初は何があったのかとストーリーをもう一度見直しちゃうくらいでしたww

 カイはと言えば、「イタイ子」という印象しかない…。だって、実力がない癖に偉そうなことばっかり言って、本当にどうしようもない子として描かれているんだもん。彼がサヤのパートナーっていうのも微妙な感じ。。確かにサヤに対して人間側の客観的な視点を与えたり、シフとの関係において種を超えたつながりを示したり、その立ち位置は重要だった。そのために、あまり冷静に現状を分析するタイプじゃなくって、熱血的なキャラとして描かれるのも納得。だけど、如何せんキャラがイタかった。。ただ不器用で一途で、相手が翼手の女王であろうと関係なく認められるような純粋さを持つ少年。そんな設定じゃないと最後のオチが成立しなかったのかなぁ。。序盤はただ空回りするだけのどうしようもない役だったけどね(^_^;)

 リクはいいように使われて捨てられた感じwあまりストーリー的に重要なポジションが与えられているわけでもなく、サヤのシュバリエになったわりには特殊な能力も発現せず、ただただディーバの交配相手として取り殺されるだけ。。どうも物語を面白い方向に導くための「呼び水」的な役回りしか与えられず、キャラクターというよりかは物語を進める道具立てとしての性格が強かったように思う。

 なんだか、主役なんだけど主役じゃないんだよねwwディーバ側のシュバリエたちの存在感からすると、どうしても噛ませ犬というか、シュバリエたちの感情を引き出すための道具っぽい位置付けにしか思えない…。最後まで彼ら主役たちにはなじめませんでした(^_^;)

■ディーバ側のシュバリエたち

 そして、この作品で主役よりも目立って活躍したシュバリエたちです。サヤの煮え切らない設定やカイのイタイ感じとは異なって、彼らはよっぽど人間らしく感情の吐露を行います。これをやりたかっただけだったりしてね…w

 特に印象に残っているのはカールの偏愛とソロモンの純愛です。カールはファントムって呼ばれているところからして、『オペラ座の怪人』を意識しているんじゃないかと思っていましたけど、なんともヒロインに対して狂おしいまでの愛情を以て不器用に接するという点がまさに共通していました。そんな二人とサヤの関係を示す場面を抜き出します。

「僕は、僕はカールが羨ましかった。純粋なまま、自分の思い通りに生きていく、彼の姿が…。しかし、それは、僕の誤解だったんですね。彼はただ、孤独だったのです。そして、孤立していたあなたに同じ思いを見出したのでしょうね。けれど、あなたとカールは違っていた。あなたには、あなたを見ている仲間たちがいる。なのに、あなたは自ら望んで孤独を選んだ。あなたの仲間のために。けれど、あなたに言われるまで、カールはそのことにすら気付かず、孤独の中で、すべての不都合から目をそらしている自分に、気付かなかった。彼を見ている、僕がいたことにも…。」(#37「狂おしいまでに」より)

 ソロモンはサヤを襲うカールを傍目にこんなセリフを言うんです。この場面はまぁまぁよかった。これを受けて、ソロモンがサヤへの愛を貫こうと決意したのもよかったかな?
 結局、身体のほとんどを失ったジェームズが冷静さを失って復讐に動く場面や、真理の探究に目が向くばかりに他のことを顧みないアンシェルや、カールやソロモンの一連の心情の機微を表現した内容はサヤたちの心情表現に比べて格段によかった。というより、サヤたちの心情表現は曖昧だったり省略されたりで期待できなかったのもあるし。
 そして、ネイサン・マーラーが実は先代の女王のシュバリエだったっていう設定も驚いた。最後にサヤの血をもって殺されるけど、よく考えれば石化する場面が描かれていないんですよねwつまり、彼は先代のシュバリエであるために、サヤの血に対して拒絶反応を見せるわけがないってことです。そして、ネイサン・マーラーというキャラクターを捨てて、新たな女王の行く末を見守るためか市井に身を隠すんですね。。。なんていうか、主役よりも手の込んだ設定が与えられるだなんて、幸せですよねww

■他作品からのフィードバック

 どうしても考えちゃう…。まず、『BLOOD+』は2005年の放映になります。だから、『喰霊-零-』を除いて影響関係はばっちり見られるんですよ…w女子高生が刀を振り回すってだけが『喰霊-零-』と似ているんですけどね(^_^;)
 『十二国記』はある日突然、女子高生が異世界に連れて行かれて困難に立ち向かいながら生きていく物語。ここでも主人公に剣が与えられて、主人公はそれを振り回しますwサヤは普通の女子高生として生活していたわけですが、そこを翼手に襲われて、次第にその戦いに巻き込まれるっていう設定が似ていた。それに、はじめはハジが慶麒にしか見えなかったww主人公に忠誠を誓って仕えているあたりや、主人公をサポートしながら意に従って行動するあたりは完全に一致するものです。ちなみに、十二国記の主人公である陽子も「女王」ですけどねww二つの作品は世界観が大きく異なっているけど、どうもここらへんの人物関係における設定は似ている。換骨奪胎って感じ。
 『Witch Hunter ROBIN』は異能者が人間社会にどう溶け込むかって話。それに、Witchを狩る側であるロビンが主人公なんですが、実はそのロビンもWitchとしての異能者であったという設定。そんな葛藤の中でロビンがどんな結論を出すのかっていう物語。これも激似ww特に、動物園にサヤが行ったあたりの心の中での葛藤や、ロシアでリザに化けたアンシェルに同族を殺しているんだという事実を突きつけられたところは同じ設定を感じる。サヤも翼手を狩る側の人間なんだけど、実はサヤも翼手だったっていう部分は完全に一致。
 そして、『バッカーノ!』とは単に「不死者」という設定に共通するような印象を受けたってだけです。いくら殺しても死ぬことのない「不死者」がシュバリエの設定によく似ていた。ただし『バッカーノ!』の場合は女王への帰順といった設定はなかったので、その点では似ていないのですが。。

 あまりにこんな共通点を読み取ってしまうので、オリジナリティーを感じないんだよね(^_^;)前の作品でやっていることをやるなら、それ以上のことをやるか、違う解釈によるかしないと意味ないでしょ。。

■展開の強引さと無理筋

 なんていうか、そういったアニメの旧作やオペラ座の怪人やサロメや、作者側の好きな演劇なりアニメの場面や設定を取り込んで継ぎはぎしたような印象を強く受けました。だから、話全体の筋には無理が生じているんです。それが主役たちの設定に反映されてか、あんな物語を進めるための道具としての意味合いしか見出せないような中途半端な設定になったんじゃないのかな?
 リクはあっけなく死んじゃうし、あれだけカイたちとの関わりを切ろうとしていたサヤはクマさんのぬいぐるみを持って誕生日会に参加するし、サヤはいつまでも煮え切らないし、サヤが急に人が変わってるし、ジュリアは一度はサンクフレシュ側に寝返っておきながらいつの間にか戻ってきてるし、サヤはあれだけディーバを殺そうとしていたのに殺したら助けようとするし、どうも一貫しない設定が目立ってしょうがなかった。
 特に、ディーバの歌声を衛星中継する際に、それを阻止するために衛星基地を爆破してたけど、最初から中継車を爆破すれば話は早かったんじゃないの?善後策を打つのは当たり前だろうし、元CIAのエージェントがいるにしては杜撰すぎる作戦に思える。
 それに、シフだって、なぜあの三人だけが長く生きていたのかわからないし、カイとの良好な関係性を築いた上でなお裏切ってカイを殺そうとするモーゼスの心境の変化も理解が難しいし、最後はわけもわからず太陽を浴びて死ぬし…。
 どうしても物語を面白く演出するために、多少なりとも無理な進行を許したあたりは作品としての完成度を落としているとしか思えない。。
 それと、決定的なのが言語。彼らは無意識のうちに共通言語を話しているのかな?ロシア・アメリカ・ベトナム・イギリス・フランス・日本と、各国を渡り歩くも全員が難なく会話している…wwベトナムのときは文字だけは言語の境界を設けていたらしく、そのあたりの設定も矛盾を感じる。。

■要素の継ぎはぎ

 やっぱり、何かやりたい場面のために無理やり話しを持っていく方法ってのは慣れないな…。やたらと繰り返されるシフの「ありがとう」や「思い出になれるかな」や「おぼえていてくれ」っていうセリフもくどかったし、「ナンクルナイサ」も最後のほうはやたらと頻繁に繰り返されてウザかった。。
 #44ではカルマが病院で血を求めて人を襲っていたとき、イレーヌをはじめとして死んでいった仲間の姿を幻視する場面がありました。そこで、彼は胸に手をあてて「みんなここにいたんだね」なんて言うんです。これって、他の作品でもよく見かける流れだから理解できるけど、本当に初見でこの場面を見たら理解できないんじゃないのかな?カルマは自分の思い出の中に彼らの存在を認めることができたってことで、だから胸に手をあてて「みんなここにいたんだね」って言うわけです。それにしても、そう思ったきっかけが一切描かれていないから意味不明な流れではあるんだけどねww
 要素の継ぎはぎをやっている決定的な場面がここにある。つまり、はじめから他の作品なんかでやっていた好ましい場面を想定して、それを作中でやろうとするから筋に無理が生じるんです。どうしても継ぎはぎの縫い目が出てきちゃって、一枚の布としての美しさは損なわれてしまう感じ。

■50話のしがらみ

 やっぱり50話って長いんじゃない?見たことのある作品で50話やって成功してるのって、ないんじゃないのかな?『エウレカセブン』も50話に引き伸ばすために途中が冗長になってたし、『コードギアス 反逆のルルーシュ』もしかり。唯一、『∀ガンダム』が50話という尺の長さをうまく生かした構成になっていたくらいかな。。『ハヤテのごとく!』や『彩雲国物語』も50話を超えるけど、これはまた別だし、『十二国記』も同じ。一続きの物語をもった作品として50話を余すことなく生かして構成されていたのは、やっぱり『∀ガンダム』しか記憶にない…。
 この作品も、ベトナム編ってカットしてよかったんじゃないの?作品はようやくロシア編の後半からエンジンがかかってきたみたいだし、それからも冗長な場面は多かったから、26話にまとめることは可能だと思う。継ぎはぎなんだから、そこらへんは簡単でしょ??wwそれに、最後はグダグダなハッピーエンドだったしね。。。

■最終話でのオチ

 最終話もハッピーエンドに持っていくための力技が目に見えて使われていたwwっていうか、ディーバの子供を殺してサヤもハジと一緒に消えればいいのに…。無理してカイとのハッピーエンドに持っていくあたりが失望の度合いを高めたwwしかも、最終的にハジまで生かしちゃう始末。。
 要は、ハジには退場してもらわないと、サヤとカイの円満な関係を構築することができなかったんでしょ?ハジがいたらカイも遠慮して二人だけの関係になれないもんね。。だから、ハジを殺すためにわざわざ一度は退場させたアンシェルをもう一度復活させるし。。強引過ぎるでしょww
 それに、すべてが終わってからも、サヤはよく笑って影もなく生きていられるよね。。今までの設定を踏まえれば、サヤの生活は相当の犠牲の上に成り立っているんだから、そんな悠長に日々の楽しい生活を謳歌することなんてできないはず。なのに、あの笑顔!wハッピーエンド症候群って怖いですね。。。確かにサヤ自身の存在も初代ジョエルによって生み出された不幸なものなわけだから、彼女も被害者であると言えばそうなんだから納得できないわけじゃないけど。。

■最後まで残った謎

 一番の不満はこれ。リクは序盤で翼手の候補者になるような子供しか聞こえない音を感知できていたのは、なんでだったの?ワインはなんのための道具だったの?なぜディーバの近くには青いバラが生えていたの?サヤの声はどうして変化したの?っていうか、海の底からサヤとディーバはどうやって復活したの?翼手の双子はなぜ相反する血を有する??などなど、謎は解決されないままです。他のメディアミックス作品でこれらの謎が解決されているのかな?でも、それって卑怯だよね。。

■音楽

 まぁまぁ、酷評しながらも音楽はよかったと思う。中でも、ディーバの歌は気に入りました☆それに、作中で『木星』とか『1812年』が流れていたのもクラシック好きとしては見逃せないポイントでした。。



 結論:マオとイレーヌが出てくれば、それでよし!!ww彼女たちこそ『BLOOD+』の主役です☆特にイレーヌは大好きです。もっと出せ!!!www
 こんな批評と考察を書いて、生きていけるだけのお金をもらえるような仕事ってないのかな?まぁ、お金をもらうような文章ってのもおこがましいし、好き勝手に書けないだろうから嫌だけどねwwやはり、文化とか藝術って経済と関わらせちゃったら廃れるんじゃないのかな?金銭的には無価値で、生きていく上では無意味な行為こそ文化藝術…っていう定義もありなんじゃない??wだからこそ、投資の対象や営業目的でのアニメ製作っていうのが後世に引き継がれるような秀逸な作品を生み出さないんだろうね。政府が文化立国のための政策としてパトロン的に保証すればいいんです!!ww無理だろうけどね~w
 はぁ、疲れた。。さて、また他のアニメを見よう☆

テーマ:見たアニメの感想 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/08/14(金) 23:16:34|
  2. BLOODシリーズ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

コメント

<%template_post\comment>


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://lizardofsuturn.blog40.fc2.com/tb.php/91-a4b0184f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。