土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『コードギアス 反逆のルルーシュ』#02「覚醒の白き騎士」

「皇暦2010年8月10日、神聖ブリタニア帝国は日本に宣戦布告した。ブリタニアの最新兵器、ナイトメアフレームの前に、一月ともたずに敗れ去った日本は、自由と伝統、権利と誇り、そして、名前を奪われた。イレブン、その数字が新しい日本人の名前だった。」
『コードギアス 反逆のルルーシュ』#02「覚醒の白き騎士」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 さて、初回につき二話連続の投稿ですwそれに、この#02は#01と合わせて一話みたいなもんですから、続けて見ちゃいました。っていうか、コードギアスって病み付きになる演出ですよね…。見始めると止まらない!

■名付けと名告り

 冒頭でC.C.が言っているように、日本人は名前を奪われちゃいました。そして、「イレブン」という新たな名前によって「名付け」が行われたわけです。名付けるって行為は相手を自分の管理下に置くということです。たとえば、『千と千尋の神隠し』においても「千尋」という名前を奪われて「千」として名付けられたことによって、千尋は湯婆婆の管理下に置かれたわけです。その結果、昔の自分の名前を忘れることになり、湯屋のある向こうの世界から帰れなくなりました。そして、名前を思い出したことによって自由を得て元の世界に帰ることができました。他にも、こういった「名前」に関する同様の設定は『ゲド戦記』の原作や夢枕獏さんの『陰陽師』の「呪」にも見られます。言靈信仰とはちょっと違うのかな?「名付け」って行為は目の前の現象を自分の認識のもとに縛り付けるものですから、名付けられた現象そのものに自由はなくなるんです。他に身近な例を挙げれば、「山田さんちの花子ちゃん」と呼ばれれば山田一家の一員としての花子として扱われますが、「日本人の山田花子さん」と呼ばれた場合にはあたかも日本人の代表であるかのように扱われ対応しなければなりません。単に「山田花子さん」と呼ばれれば、そういった属性もなく非常に個人的な「山田花子」として活動できます。要は、名前を呼ぶ側の人間の意識によって「山田花子」がどのように括られるかという問題であって、そこに「山田花子」自身の自由な主張は成り立ちません。「日本人の…」と呼ばれた場合には、相手の考える「日本人らしさ」のようなことが無意識のうちに求められていることにもなります。このように、「名付け」とはそう呼ばれただけで自身の行動やありようを規定されてしまうものとも言えます。
 そして、その反対が「名告り」の行為です。これは自らが自分の名前を相手に名乗る行為で、自分という存在を好きに主張することができます。自分で自分の属性なりアイデンティティーを決定することができます。したがって、「名告る」ことによって伝えられた名前には主体的な意味合いが含まれることになりまる。
 そう考えると、カレンが「私は日本人だ」と言う行為の意味合いは、ブリタニアによって「名付け」られたイレブンという名前を否定して自らの名前を「名告る」わけですから、そこには主体的な独立の意志を読み取るべきなんだろうと思います。

■与えられる能力と登場人物の資質

「おめでとう、世界でただひとつのナイトメアが君を待っている。乗れば変わるよ?君も、君の世界も。」
「望もうと、望むまいとね…。」

 ロイド博士の言う「世界」っていうのは「world」の意味での世界ではないんでしょうね。「君の」って付けられているくらいですから、自分を取り巻く「環境」くらいの意味合いなんじゃないでしょうか。難しく言えば「自分の認識している世界のありよう」ってこと。要は、世界を見る主観の中心にある自己が変わることになれば、畢竟、その主体の見ている世界も異なって認識されるようになるっていうこと。だから、「君の世界も変わる」って言われたわけです。スザクはランスロットに搭乗する機会を得たことによって、社会的な立場も変わり、自らの手で事態を操作できる力を手に入れることができました。ルルーシュがギアスの力を手に入れたのと対になる形です。アムロ・レイがガンダムに乗ったときと同じようなシチュエーションですよね。。。
 思えば、スザクじゃなくっても良かったんじゃないのかな?ルルーシュもそうなんだけど、彼ら二人である必要性ってどこにあるの?確かに出自の面では互いに見知った仲でもあるし、それぞれブリタニアに対して何らかの特別な感情を持っていることから「動機ある者」として能力が与えられるだけの理由はあるんだろうけど。誰でもギアスの能力を与えられるか、ランスロットのような最新兵器に搭乗する権利が与えられれば、事態に影響を与えられるだけの存在にはなれます。つまり、彼らは先天的・後天的に関係なく何か個人的な資質なり才能によって「英雄」となったわけではなく、ギアスやランスロットという「道具」を与えられたことではじめて「英雄」となることができるんです。決してこれらの能力の付与がなければ「英雄」にはなれなかった。二人は「英雄」という立場になったことによって、どのような世界が見えるのか、あるいは、どのように世界から思われるのか、なんていう至って内面的な描写が中心になるのは当然とも言えます。視聴者としては、彼らに自己を投影しながら、英雄になった場合の自分が展開される物語をどのように受け止めるのかといったことを追体験できる仕組みなんでしょうね。「代替可能な英雄」とでも言えばいいんでしょうか。彼ら二人は出自や能力や環境や、すべて作者によって与えられたものであって、決して彼らの「らしさ」に由来するものではありません。
 一方、比較の対象として『十二国記』の陽子が挙げられます。彼女もある種の「英雄」であり、慶麒に選ばれた特別な人物でもあります。けど、彼女は波乱に満ちた経験を通して自身の資質なり思考を練磨育成したのであって、決して与えられた能力によって英雄として扱われるようになったわけではない。彼女は彼女なりの精神的な強さを獲得したからこそ慶王の座に即くことができたのであって、誰でもなれたわけではありません。『十二国記』の陽子の場合は英雄になれるだけの能力をはじめから与えられたのではなく、英雄になるための資質を獲得するまでの成長の記録が描かれていたと見ることができます。
 そう考えると、『コードギアス』のほうは、彼ら二人ははじめから英雄になれるだけの能力が与えられており、「英雄」になるための資格は能力が与えられるかどうかという一点に限られます。ブリタニアの王子であるとか枢木首相の息子とか、そういった先天的なステータスでさえ与えられたものでしかない。『コードギアス』と『十二国記』を比べれば、それぞれの描く英雄像の違いが明らかになって面白いと思います。



 まぁまぁ、でもルルーシュってキャラは好きです。なってったて、彼には「狂気」がある。狂おしいまでの復讐心や愛惜の心っていうのは見ていて飽きないですよね(^_^;)「ふっ、戦術的勝利なんか、いくらでもくれてやる。」なんて負け惜しみとか、「戻ってまいりました、殿下。すべてを変えるために。」なんていうメラメラと燃える野望とか、思わずニヤニヤしちゃいますwさ~て、次はシュタットフェルト家令嬢としての大人しいカレンが登場です。。

テーマ:コードギアス 反逆のルルーシュ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/08/16(日) 23:07:58|
  2. コードギアス 反逆のルルーシュ
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