土星蜥蜴の「筆のすさび」

日々雑感。 アニメ文化に関する気ままな評論・感想を書き連ねます。

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『化物語』#07「するがモンキー其ノ貳」の感想。

「アララギ先輩に嫉妬して、戦場ヶ原先輩に失望した。そして、そんな自分自身にあきれ果てた。何が戦場ヶ原先輩を癒すだ、何が身を引くだ。そうしていれば、戦場ヶ原先輩に褒めてもらえるとでも思っていたのか、バカバカしい。偽善にも程がある。でも、それでも、私は昔みたいに戦場ヶ原先輩に優しくしてもらいたかったのだ。エゴでもなんでも、戦場ヶ原先輩の傍にいたい。だから、だから私はこの手に願ったのだ。戦場ヶ原先輩の傍にいたい…。」
『化物語』#07「するがモンキー其ノ貳」より

以下、ネタバレが多分に含まれますので、ご了承の上でお進みください。


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 いや~、久しぶりの投稿です。とは言え、六日ぶりなのですが…。ちょっとお仕事やら何やらが忙しかったので、いささか義務感の強い「毎週やってるアニメの感想」っていう大義がなければスルーしてましたwルルーシュの感想も止まってるし、どうもご無沙汰です。実は…、『DARKER THAN BLACK 黒の契約者』を見ていたので遅れましたwwもうすぐ見終わるので、そちらの感想も来週あたりには書こうと思います。
 さて、今回は否定的な見解をひとつ。というより、作品に対するものではなくて時代に対する否定になっちゃうのかな?前回の「まよいマイマイ」が水面下で時代性を感じさせる主張をしたたかに織り込んでいたのに比べ、どうも「軽み」のようなものが強くって仕方ない。

■言葉遊びと「軽み」

「そうだなぁ。では、こう考えたらどうだろう。スポーツ少女でもあり、また、露出狂でもある。スポーツ少女だと思う者にはスポーツ少女であり、露出狂だと思う者には露出狂なのだ。」

 要は、現象は観察者の主観によって好き勝手に認識されるってことですね。「ゴミの山が宝に見える」っていうのと同じです。ある人にとってはゴミとしか思えないものも、人によっては価値を見出すことがある。見る人によって現象への認識が同じではないことを示す例です。でも、単にここの場面で使っているのは言葉遊び的な感じがしますけどねw

「猿の手はW.W.ジェイコブズの短編小説のタイトルなのだが、持ち主の意に沿わぬ形で願いを叶えるという曰くつきのアイテムなんだ。」
「全然知らない。」
「何も知らないままに真実を言い当ててしまうなんて、アララギ先輩は天におわす何者かに選ばれているとしか思えないな。」

 やっぱり意味ありそうで意味のない設定は続くようで。。。「猿の手」の話なんかは尤もらしく出してきていましたけど、そこまで物語の展開に深く関わるような意味を持っていないし。どうも「軽み」を感じます。それに、「天におわす何者か」っていう表現も気になる。「天国」って言わずに「天」って一文字で使った場合には中国的な発想で考えちゃいたくなりますwまぁ、その「天」の概念規定については『十二国記』で面白いアプローチをやっていますので、そちらを見ることをお薦めします。いや、何が気になるかと言えば、「天」は人格を持たない概念であるはずなのに、「何者か」っていう個人を特定し得るような表現を使っているところです。ここらへんの言語感覚も、深い知識をもとに構築された風を装いながら、実は浅い部分で言葉をころがしているだけに見えるひとつの要因となっています。深そうで浅い、重そうで軽い、意味ありそうで意味がない、なんていう印象が…w

■「キャラ」という暴力

「だからって、いきなり、これまでのキャラを崩すような声音をあげてんじゃねぇよ!」

 前回の「するがモンキー其ノ壹」でも「メタ」について項目を設けて感想を書きました。今回も同様にメタ要素が見え隠れしています。「これまでのキャラを崩すような声音」っていうのは明らかなメタですよね。。。ただ、最近の青少年は「キャラを作る」ということが現実の社会においても通行している観念のようですから、劇中の設定として考えることもできなくはない。けど、そもそも「キャラ」って作家という第三者視点によるものですから、それを登場人物が自ら口にするってことは、少なくとも自分以外の他者の視点を以て自己の人格なり性格が形成されるものという認識を表出したことになります。これはやっぱり「メタ」な要素と見ていいんじゃないのかな?
 しかも、「キャラ」は何か一貫性を以って構成されなければならないという意識まで覗かせています。つまり、「キャラ」は「崩す」ことがあってはならないようです。アララギの前では「スルガ」というキャラを一貫して演じきるようにという要求を突きつけているとも言えます。これでは、あたかも作中の登場人物自身が役を演じているような印象も受けますし、やっぱり「メタ」ですよ。
 まぁ、ここで重要なのは「第三者視点によって個人の人格や性格が規定される」という「キャラ」という発想があることです。内発的に個性が規定されるのではなく、個性の規定さえも他者間で共有されている自己の虚像に従属させようとする行為にも解釈できます。しかし、問題なのは個人の人格やら性格(=アイデンティティー)は多くの人に共有されているものであって、そこに一貫性を求めることは難しいということです。アララギの知っている「スルガ」という存在=現象(スルガ視点で言えば、これは虚像。)と、ヒタギの知っている「スルガ」という存在=現象(これもスルガ視点で言えば、虚像。)は、確かにアララギとヒタギが会話をしたところでは同一の存在=現象を「スルガ」と認識していることを共有できるはずです。実際に、「するがモンキー其ノ壹」では互いの話に不一致を起こすことなく「スルガ」についての会話が成立していました。しかし、だからと言ってヒタギの知っている「スルガ」の情報はアララギのそれよりはるかに上回っています。したがって、「スルガ」についておおよその認識を共有することはできても、両者の間で完全に一致する「スルガ」という存在=現象の共有は不可能だと言えます。これも彼ら二人に共有されているスルガ像が虚像であることの所以です。それこそ同期するか並列化するかしないと実像の完全な共有は無理です。
 つまり、「キャラを崩すな」と言って一貫性を要求することは第三者の視点による相手の虚像を実像の所有者である本人に押し付ける暴力であるとも考えられます。そして、それはおおよその場合、幻想的な共同意識のもとに安直にも実像所有者本人に受け入れられてしまうところが悲しい。相手の暴力を受け入れない限り、友達の輪に入ることは難しい場合もあると思います。相手によく見られようと「キャラを作っている」なんて蔑まれる人がいますが、それも円滑な人間関係を構築して相手に気に入られるために自己の本来性を犠牲にしてまで「キャラ」を演じているわけです。だけど、先にも言ったように、多くの人間に共有される一貫性のある「キャラ」なんて成立させることは不可能です。それは「アイドル」と呼ばれる人々にのみ許される幻想です。人それぞれに認識は異なるわけですから、あくまで虚像は完全に一致した像を結ばない。他者に認知されない限りコミュニケーションすら成り立たなくなりますから、こういった「キャラ」の問題は「社会的な生き物」である人間にとっては死活問題ですw

■傲慢な個人と崩壊する個性―恋愛表象から読み取る「個」の規定―

 スルガはヒタギに嫌いだと言われたことを受けて、近付かないことがヒタギへの愛を示す行動であると考えたようです。とにかく、恋愛関係って他者との関係性を否定したら成り立たないと思いますから、離れることで自らの愛情を表現しようとする行為はオフライン作業みたいな感じでやや自己満足に陥っているように感じられます。

「それで、少しでも戦場ヶ原先輩が救われるというのなら、私は身を引くことができる。」

 しかし、スルガはアララギがヒタギと仲良くしているところを見て嫉妬します。そうなると、ただ離れることが相手への愛情を示した行動になると思っていたのが否定されたかたちになります。実は、誰のものでもないヒタギをひそかに慕っているという状況なら納得できていたということで、決して独占欲がなかったわけではなかったのです。アイドルが結婚したり恋愛したりしてはいけないという不文律があるのと一緒ですよね。最近はそうでもないのかな?wスルガはヒタギを愛する上で離れたところから恋い慕うという方法を取り、それはヒタギとの直接的な関係を持たない閉じた世界における恋愛であるとも言えます。つまり、そこでのヒタギとは具体的な人格を持つのではなく、あくまでスルガの捉えるところの虚像となります。先にアイドルと出しましたが、そもそも「アイドル」とは偶像のことですから、まさしくスルガにとってヒタギはアイドルだったと言えます。しかし、自分の抱いているヒタギらしからぬ行動として、ヒタギはアララギと恋仲になるわけです。これには怒り心頭。自分の信じる偶像をアララギに壊されたことになりますから、嫉妬もさぞかし尋常ではなかったんでしょう。。

「アララギ先輩に嫉妬して、戦場ヶ原先輩に失望した。そして、そんな自分自身にあきれ果てた。何が戦場ヶ原先輩を癒すだ、何が身を引くだ。そうしていれば、戦場ヶ原先輩に褒めてもらえるとでも思っていたのか、バカバカしい。偽善にも程がある。でも、それでも、私は昔みたいに戦場ヶ原先輩に優しくしてもらいたかったのだ。エゴでもなんでも、戦場ヶ原先輩の傍にいたい。だから、だから私はこの手に願ったのだ。戦場ヶ原先輩の傍にいたい…。」

 その一方、アララギはヒタギの実像に迫ろうとしています。「まよいマイマイ其ノ參」ではヒタギからの積極的な主張を求める約束をしています。

「戦場ヶ原、見えていないものを見えているフリしたり、見えているものを見えていないフリしたり、そういうのは今後一切なしだ。もしも意見が食い違ったら、そのときは、ちゃんと話し合おう。約束だ。」

 アララギとヒタギの関係においては、互いに互いの異なった意見の存在を認めようとしており、スルガの閉じた世界におけるヒタギの偶像とは大きく関係性が異なります。スルガは自身の抱く偶像とは異なったヒタギの自立した行動を否定したいからこそアララギとの関係に嫉妬したとも受け止められ、ヒタギに「戦場ヶ原先輩に優しくしてもらいたい」という自分の抱く偶像の体現を求めます。ヒタギを中心にして、アララギとスルガの恋愛模様が好対照に描かれていてよかった。

 問題にしたいのは先の「キャラ」の暴力です。スルガが自らの抱く偶像をヒタギに求める行動もこれと同じものであり、これらには自立した「相手」の存在を認めない傲慢さが潜んでいます。自己の認識を是正してしまう他者の介入を快く思わないために、スルガは自己のヒタギ像を守るべくアララギへの嫉妬を深めているとも読み取れます。そこには超然的な主観しか存在せず、客観的な視点はありません。彼女には自分の認識こそ第一であるとする発想が根底にあり、それに従わない外界は認めないという独善的な価値判断を行います。
 しかし、先に言ったように、彼女自身のキャラはアララギによって「崩すな」という要求が与えられるように、決して独立して成り立っているものとしては描かれません。スルガが彼女らしからぬ声音をあげたことこそ、彼女が独立して自己の存在を規定していることの証明ともなるという反証もあるでしょう。ただし、同一のスルガという登場人物に相反するような設定を与えていることそのものを問題とするべきだと思います。アララギに「キャラを崩すな」という指摘をさせているところも問題です。スルガは自らのキャラを構築する上で、他者の認識に依存するか影響を受ける状況にある一方、スルガは自身の抱くヒタギ像を維持するためにヒタギに自身の抱く偶像の体現を求めます。すると、一体どこに自己を規定する根拠が存在するんでしょうか。これは個性の崩壊とも言える。内発的な自己のキャラ設定(アイデンティティーの規定)が行われないまま、他者に対してはキャラ(=偶像)の押し付けを行うという矛盾はどのように解決されるのでしょうか。はなはだ疑問だし、これこそ現代の人間関係を表象するものとして興味深い事例となるのではないでしょうか。うん。。だんだん、書いてて何を言っているのか自分でもわからなくなってきたw
 これを解決するための可能性として、ひとつには「大衆によって形成される集合無意識」があげられるんじゃないのかな?まぁ、この発想はガサラキや攻殻からの受け売り的な面があることは否定しないけれども、やっぱり想定しちゃうよね。。それとも、ある一定の他者間で共有される「妥当の一致」とでも言うべきなのかな。。多くの人々とコミュニティーを形成している中で、自己の規定を集合無意識に依存していると見ることはできないんだろうか?そうすると、「個」と「個」の境界はすでにボーダレスになっていて、「大衆」という複合体の形成を見て取ることも順当に思えるんだけど、、なんだか前提とループしてるような。。あ~、ギブアップ。。他の事例が出てきたときに再考したいと思いますww直感的には「大衆によって形作られる集合無意識=神的存在」っていうように考えられるんじゃないかと思うんだけど、無理かな…(^_^;)



 なんか、言葉遊びをやるんじゃなくって、具体的な表現で説明して欲しかったなぁ。やっぱり言葉の面白みにばっかり頼って、物語としての展開や構成に不備を感じるwスルガはヒタギの代わりになろうと言うけど、アララギは「誰かが誰かの代わりになれるわけがない。」なんて言います。そりゃそうだろうけど、スルガにははっきりヒタギの代わりになるって言わせずに、黙ってアララギの彼女になろうとするのを描いて欲しかった。そして、その愛はアララギに対するものじゃなくって、自己の抱くヒタギ像を守るためのある種の方便であったっていう展開。このほうがスルガの曲折した愛情をうまく表現できるような…、気がするww

テーマ:化物語 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/08/22(土) 03:22:11|
  2. 化物語
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント

本当に何度読んでも勉強になる文章です。
今回の感想のキャラの一貫性の話はとても興味深く、自分でも考えてみたいと思います。
  1. 2009/08/24(月) 00:36:30 |
  2. URL |
  3. 藤川 #-
  4. [ 編集 ]

コメントありがとうございます。

 どうも上手くまとめられませんでした(^_^;)中途半端な文章でも気楽にアップしてしまうところが、ブログのいいところでもあり、悪いところでもありますね。。。

 「キャラクター」っていう現象は面白いですよね。本来は作品に登場する人物の性格や容姿まで含めた作家の「設定」による人物像を指したものだと思いますけど、それがリアルな世界にフィードバックされて、今では「キャラを作る」とか「キャラを演じる」だなんて言われるほど身近な用語になっています。まるで性格や資質に関わるアイデンティティーが二重・三重に存在するかのようです。しかも、それは他者から与えられたり、場面によって使い分けたり、どうも本人の本来的な性格に関係なく「操作」することのできるものとして捉えられているようです。問題としては当然のこととして内面的にどのような心理状況に由来するものかというものもありますが、そういった「キャラクター」を成り立たせる本人を取り巻く社会の問題としても考えられるのではないかと、いろんなアニメを見ながら考えてます。

 今後とも、どうぞご贔屓に。
  1. 2009/08/27(木) 00:10:47 |
  2. URL |
  3. 土星蜥蜴 #-
  4. [ 編集 ]

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